恥ずかしながら

 やはりというか、当然というか、いや、これだと同じ語感になってしまうが他に当てはまる言葉がないのだ。看護師の試験で僕の知っている二人のフィリピンの女性が試験に落ちた。試験の後、「難しかった」を連発し合格しないと言っていたから彼女ら自身も覚悟はしていたのだろうが、言葉の壁だけで不合格になるのはもったいない。実際に彼女たちは国では立派な看護師の資格を持ち十分活躍していたのだから、こちらでも即戦力として本来なら活躍して貰えるはずだ。英語が堪能なのだから、英語で試験をしてあげればいいのにと思うが、それは素人の単なる同情でしかないのか。確かに、実務で交わされる言葉が不完全では医療ミスを犯してしまうだろう。その為に問題をいたずらに容易にすることは出来ないと言う正論も分かる。  おまけに二人は病院から特別の援助をしてもらっているわけではないのだ。新聞によると合格率1%の難関を突破した3人は各々の病院が特別なレッスンをしてくれたりしていた。その事を話すと「いいな」と一瞬顔をしかめ、その後「自分、自分」と独学を強調する二人に同情を禁じ得なかった。ついでに言うと看護師ではなく看護助手という肩書きだからかアパート代の補助も出ていないと言う。看護師の世界もおまえもかと他の産業と同じような光景が目に浮かぶ。  俄然僕は彼女らに日本語で話しかけることにした。もっとも僕は日本語か岡山弁しか喋れないので大差はないが。若いから話題を見つけることが難しいが、大家族で育っている彼女たちには僕ら世代に壁はないらしい。国に残した両親を思い出すかもしれないと情緒に浸っていたら一人の女性の両親はもういないらしい。まだ十分若いはずだから理由を尋ねたらどちらも、つい最近病気でなくなったらしい。もっと悲しいことに、2月にお兄さんまで亡くなったと言う。そんな悲しいことを思い出させて申し訳なく思ったが、「勉強する、勉強する」と気丈に繰り返す彼女を見て、目的とか夢とか希望とか、もうそのどれも失っていた僕は、恥ずかしながら目的とか夢とか希望とかを持ってみたいと思った。