年賀状

 賀状の中から幸せがにじみ出ていますよ。宛名書きの方からもそれが見えます。全てが順調にいっているみたいですね。と言いながら僕は最近何がよくて何が悪いのか、と言うより、何に価値があり、何に価値が実はないのかあまりハッキリとした確信は持てていません。嘗て追いかけていたようなものはすでに十分色褪せていますし、これから追い求めるようなものは全く見あたりません。朝の散歩で、頭上数メートルのテニスコートの支柱に白鷺がじっと留まっていてくれたりしたら、又夜空に東から西に、北西から南東に赤い光を点滅させながら飛行機が星を避けるように飛んでいるのを見るときに、それ以外が心の中に占める空間がない一瞬が、安らぎの脱力状態だと思うのです。  牛窓に帰ってからは、怠惰を極めたあの岐阜の5年間の罪を償うように働いてきました。どちらも僕の中にある一面だと思います。ただこの両極端の次が現れないのです。次はどうなるのだろうとふと考えることもありますが、心地よい光景が控えているようにはとても思えません。今を延長して朽ちてしまうのだろうかと、磨りガラスの向こうにいる自分を捜してじっと目を凝らしたりします。  強いて言えば、たった一つだけ学生時代に意味を持っていたあの価値観が、今になっては自分の人生の免罪符でしかありませんが、ますます遠ざかっています。この息苦しさを受け入れてしまう習性からこの国の人達が逃れられていないのも、今の僕を悶々とさせている理由かもしれません。  日常が白鷺より、飛行機の灯りより感動的でないとしたら、日常こそ仮の営みのようにも思えてきます。そろそろ帰っていくべきところの懐の広さに救われ始めているのでしょうか。