手ぶら

 彼が現代の若者の全てを代表しているようなことはあり得ないのだが、僕の薬を飲んでくれている若者にかなり共通した傾向を代弁した。 彼の話しの中で繰り返されたのは、嫌われたくないと言うフレーズだった。繰り返される言葉の頻度が、現代の若者の生きていく上でのキーワードを如実に示している。例えば、気を許した親友は別として、その友人の友人、例えば何かの席で偶然同席する人にでさえ嫌われたくないのだそうだ。そして苦手な筈の過剰な演技をして席をしらけさせないように勤めるのだそうだ。その結果、当然不必要な疲労に襲われるらしい。 いつの頃からそんなになったのだろう。服装などで個性を追求している若者の姿が時に放映されたりしていたから、寧ろ逆だと思っていた。ところが実際は同質を求めて突出しないことに心を配っているのだ。僕はそんなことに費やすエネルギーがとてももったいないと思った。いくら若くても気力体力が無尽蔵にあるわけではない。有限のものを、まして青春期という一種区切られた期間に、そんなことで浪費するのはもったいない。  敢えて言うなら、僕の青春時代はむやみやたらに他人から好かれないことを担保に自由を獲得したように思う。人の視線は煩わしかったから、寧ろ反感を持たれるくらいを良しとしていた。偶然、いや必然かな、知り合った愛すべき超劣等生の先輩と後輩がいたから、それ以外はほとんど眼中になかったと言ってもいい。お世辞にもなにも賞賛されるものをもたず、ほとんど煙たがられるだけの集団は、自由でとても居心地がよかった。青春時代にそれ以上のどんな人間関係を求めよう。いやな奴はいや。単純明快だった。何をもって合わせる必要があるだろう。 恐らくその愛すべき人間関係で得たものはほとんど何もないと思う。もっとも、打算は皆無だったから、何かを得ようなんて思惑は元々ない。ただ、何も持たない人達との交流は一生を保障してくれるくらい自由だった。あの頃の夢のない非生産的な怠惰な時間の洪水が、その後の不自由で打算的な生活を帳消しにしてくれていると思う。  僕は今の若者達に「整えないこと」を提案したいと思う。身の回りを、よい人間関係や便利な物質で整えないことだ。高い山に登らなければならない世代にとっては、そんなもの荷物でしかない。麓に捨ててくるべきだ。何もないことほど自由はない。青春なんて、所詮手ぶらでいいのだ。