大変

 「みんな大変なんよ」と言われて素直に頷ける。大変そうにない人に会わないから、みんなと言うところが妙に説得力を持つ。普段の会話で「みんな言っているよ」なんて言われると、僕はみんなではなく、あなたが言っているのだろうと思うことにしている。特に何か本人に不都合なことに異を唱えるときに「みんな」は便利なのだ。みんなと言われてみんなであったことが今だない。 しみじみ言った奥さんは、近所の家庭内の不幸を見聞しての言葉らしいが、他人事には思えないらしい。さすが名門を気取るお家も、連れ合いの痴呆を罵声することはあっても慈しむことはない。恵まれすぎていたから、何かが欠ける事への恐怖や憤怒は人一倍なのかもしれない。生まれ育つときから欠けっぱなしの人の強さは身には付かないだろう。まあ、人生の大半を恵まれ過ぎた環境で過ごしたのだから、晩年くらい少しは屈辱を味わっても、つじつまは合うのだろう。世の中はどこかで公平に力が働くことがある。  他人事でない奥さんも又、老老介護の予備軍だ。広い百姓家に夫婦二人ですんでいる。ご多分に漏れず子供達は都会で独立し、田舎の親は野菜を定期的に送る宅急便になっている。子は不景気で首が危ないし、孫は悲惨な受験戦士。広い空の下、心地よい潮風が吹き抜け、稲を刈った後の田圃を走り回った世代からは、全てが大変なのだ。我が家も、隣の家も、又その向こうの家も大変なのだ。何が大変かは家によってそれぞれだが、とにかく大変なのだ。大変でなければ又大変なのだ。大変であることによって、社会とかろうじて繋がり、大変でなければ、孤立して固有の時を刻まなければならない。大変こそが現代を生き抜くモチベーションなのだ。  金持ちもそうでない人も、健康な人もそうでない人も、善人もそうでない人も、もてる人もそうでない人も、みんなみんな大変なんだ。