視線

 裏口を急に開けられ、若い男の声で挨拶されたのでびっくりした。見ると息子が孫を抱いて入ってきた。息子の後ろからもう1人の孫も入ってきた。忙しい仕事に就いているので出来るだけ休日は邪魔しないように妻と心がけているから、なかなか会えないが、今日は珍しく向こうから帰ってきた。滅多に会えないから、孫は僕を見て泣いたし、だっこなんか気の毒で出来そうにもない。そこには、20数年前、僕が演じていた役割を演じている息子がいたし、その息子の役を演じている孫達もいた。僕は職場と家庭が同じ場所だったから、子供達とは十分すぎる時間を共有できた。サラリーマンの息子にとっては、嘗てを再現するのは難しいだろう。どちらがいいのか分からないが、何一つ心残りがない僕は子育てにおいては非常に幸運だったと思っている。だから、息子の子育てには絶対介入しないと決めている。両親の最高の喜びなのだから。何か乞われたときだけ頑張る。それでいいのではないかと思っている。これは他人との関係においても同じことだと思う。クールなお節介を心がけている。頼まれてと、頼まれもしないのにとは同じことをしても雲泥の差がある。まずは本人の自立が大切。それを助けるお手伝いでないといけない。例えば、薬を飲み始めるのがいずれ止めるためであって、一生飲み続けてもらうのが目標ではないことと似ている。  幼子の清らかな視線で見つめられると心が奥底まで洗われたような気がした。邪気がないとはこのことなのだろう。最も美しい魂が宿っているに違いない。その中に数々の邪念を加えていくことが成長し大人になることなのだろうか。大人になるってことは、美しくなることではないことだけは確信を持って言える。この子達が大人になる頃、空は青く、海は山を写し深い緑で、カモメたちが風に乗り滑空するのか。それとも、海水が岸壁を越えまるで生き物のように町中を這い沈めてしまうのか。  短い時間だったが、突然の来訪に、曇天の空に突然日が差したような時間をもらった。日本中で、大人達は何百万のあの視線に応えるべきだ。