夜、外に出てみて驚いた。空気がひんやりとして気持ちが良かった。さっきまでクーラーをかけて、それでもなお汗ばんで仕事をしていたのは何だったのかと思う。人工的な冷気を起こし、体感温度を下げても、不自然さはぬぐえない。星の少ない、暗い夜が、昼間隠れた秋を探し出す。ほてった体を真から冷ましてくれる入り江の塩の香のする空気は釣り船達のとも綱を放つ。  体育館から、灯りと歓声が漏れる。大人達がソフトバレーに興じている。1日の仕事の後に童心に帰っている。頭の中を空っぽにして、筋肉を燃やし、汗をかき、捨てれるものを全部捨ててこそ、あの歓声は上がる。その時、愁いは消えて心はボールのように軽くなっているのだろう。  ハードなスポーツが出来なくなってから、出来るだけ歩くようにしているが、気がついたことがある。僕だけのことかもしれないが、歩いている間は思考がほとんど停止してしまうのだ。まず考え事など出来ない。意識しても出来ないし、意識していないから余計に何も考えない。ただ、この何も考えないと言うことは、僕にとってはすこぶる価値があることなのだ。たいしたことは考えないが、それでも一日中色々な課題に頭を使っている。おおむねそれは楽しいことではなく、どちらかというと神経を使うテーマがほとんどだ。だから、僕は2年前までやっていたバレーボールの底抜けに楽しかった時間(難しいことは何も考えなかった時間)を、ただ一人で歩くことによって疑似体験しているように思う。何とかストレスに押しつぶされないで来れた30年のバレーボールの恩恵を、今歩くことによって得ようとしているように思える。ハードなスポーツと静かに歩くことがもし同じような精神の空白を作ってくれるならこんなに有り難いことはない。僕の体験から来る勝手な理論で、薬局に来る人達にも歩くことを勧めている。  人工に囲まれて生活していると季節まで数値化してしまう。26度がいいのか27度がいいのか、そんなこと、夜を丸ごと冷やしている自然の営みにとっては何の意味もない。うつむいていては夜も見えない。夜は天空から降ってくる。