新興宗教

 「新興宗教でも何でもいいから入って欲しい」本当はそんなことは思っていないのだ。でも自分のやれる限度を超えているから、母は何かにすがって、任せてしまいたいのだ。一身に引き受けた年月が長くなれば、まして自分も年を重ね、気力体力の衰えを感じてくれば、近い将来を想像しただけで不安になるのは当然だ。  本来的に傷つきやすい性格を持っている人は多いと思う。赤ちゃんの時からその素質はかいま見れる。社交的な子がいればその逆もいる。それは決して欠点ではないが、旨く生きて行くには少し損をする場面もある。だが損は不幸でも何でもない。そんな判断が介入できる分野でもない。時間がゆっくりと流れ、人々が共同で作業をし、喜びも苦しみも分かち合える時代なら、どんな性格も、共同体を構成するには欠かせないものだったに違いない。みんなで支え合い、物事を完成するには個性が種々バラバラの方が都合がいいから。ところが現代は、生産性だけ、効率だけが偏重されるから、没個性的な上辺だけどんどん誰とでも合わせられる、部品みたいな人間が求められている。所詮みんなパーツなのだ。その場所に旨く収まるだけを求められる部品なのだ。強迫観念さながらに迎合することで、自分を捨てながら自分をやっとの事で守っているのだ。  そうなれなかったと言って悲観することはない。むしろ健全な精神の持ち主と子供を誇ってほしい。生まれ育った時代が間違っていたと、時代のせいにしておけばいい。新興宗教なんて思ってもいないことでも口に出来る、ちょっとした相談相手を見つけ、ちょっとしたケーキをつまみながら、ちょっとしたコーヒーを飲み、ちょっとした冗談を飛ばせば苦痛の閾値を下げることが出来る。お母さんが楽になれば子供も楽になる。一人で引き受けないで、一人で頑張らないで。時間をもてあましている田舎の薬剤師が、あなたの回りにもいるかもしれない。