民宿ヤマト

 食卓に4人分が整然と並べられると、質素な内容でもそれなりに立派に見える。もらい物の南京の煮付けに漬け物、近所の魚屋さんで買った酢漬けの魚くらいしかなかったのだが、久々に発泡酒でも飲もうかという気にもなる。僕と1人の女性は発泡酒。妻ともう1人の女性はサイダー。この不可解な組み合わせで和食が美味しいのかどうか分からないが、会話をしながらの食事は滅多にないので、それなりの雰囲気がある。  1泊2日だが、2人とは十分うち解けているので、彼女たちの生活ぶり、心の葛藤などは隠さず教えてもらえる。僕は2人の完治への道をずっと考えている。何があれば、ゴールするのか、逆に何が障壁になって完治しないのか。  モコとクリを連れての朝の散歩はかなり暑さが応えたらしくて、汗びっしょりになって帰ってきた。でも、朝の太陽を30分近く浴びるようなことは恐らく彼女たちにはないだろう。それどころか、お昼前には、山の上にあるお墓の掃除まで行ってくれた。持ち帰った大きなゴミ袋5つくらいに草が一杯詰まっていた。こうなれば、田舎の体験ツアーだ。いやいや、こき使われツアーかもしれない。僕の娘がさすがに申し訳ないと思ったのか、お昼は岬の上にあるおしゃれな喫茶店に連れて行ってランチをご馳走した。  2人が、薬局だろうが、2階、3階、どこにいてどの様にしようが全く気にならない。善良な2人だから全く信頼しているのだが、その善良さが完治への障壁であるような気もする。昨夜はチョイ悪をさんざん勧めた。自分の欠点を逆手にとって売りにすることも勧めた。僕なんか特に職業的にそうなのかもしれないが、役に立つのは数々の失敗体験だけなのだ。もし幸運にもそれらがなかったり少なかったりした人生なら、恐らく僕は何の役にも立てない、経済追求型のつまらない薬剤師で終わっただろう。毎日薬局に来てくれる人達の中に、成功して幸せの標本みたいな人は1人もいない。肉体的にも精神的にも苦痛を抱えている人ばかりだ。本線から脱線した人生なら、それを勇気を持って邁進することだ。ちゃんとゆがみもなく敷かれたレールを走る機関車より、いつ脱線するか分からない、軋み音をあげながら走っている機関車の方が余程存在感がある。臆病なら勇気を持って臆病をさらけ出すべきだ。完治の最終章は、勇気をふるうことではないかと思った。2人には具体的に勇気をふるう場面を話したが、それを実行すれば、過敏性腸症候群は克服できる。安全地帯を作り、その中に逃げ込んでは絶対治らない。自分が一番苦手な場面に飛び込んで唯一の敵と戦うべきだ。我が心の中にすむトラウマという敵と。  2人が帰り支度をしているとき丁度 深刻な相談の方が来られたので、お別れを言うことが出来ないなと思っていた。ところが僕が調剤室に入って薬を作っていると、表の方でなにかが動いているのが視界に入った。2人が調剤室のガラス越しに手を振ってくれていた。2人は僕にとって何なのだろう。患者でもないし、友人でもない。勿論娘でもない。そうだ、「民宿ヤマト」の客だ。だから大きな荷物を持って入ってきた時「よう来たな」と言い、別れるときには「又おいで」と言うのだ。