よう来たな

 僕が祖父母の家を訪ねると、2人が何回も繰り返す言葉があった。「よう来たな」それは恐らく僕の記憶がない幼いときから、大学生の頃まで延々と浴びせられた言葉なのだ。祖父母の孫に会える喜びを端的に表した言葉で、僕はその言葉に込められた愛情をひしひしと感じていた。そして会いに来てあげることがどれだけ意味があることかを幼い心で感じ取っていた。まるで孫の義務のようにも思っていた。  今日、2人の若い女性が誘い合って来ている。2人とも初めてではないので、それこそ「よう来たな」と言う言葉が出そうだ。僕にしてみれば、完治に近いところまで来ているのだが、なかなか卒業できない。お互い自信満々のガス漏れタイプなのだが、相手が何の臭いもしないのだから、自身のガス漏れを客観的に証明できないで困惑している。実際に何もないことが相手に察知できるはずがない。そんな簡単な事実も、トラウマの前では無力だ。  今回はとびきりサービスでヨットに乗せてあげた。フェリーから眺める夕焼けはすばらしいが、2人ともそれは経験済みなので、ホテルリマーニにお願いして乗せてもらった。帆を張る作業や、舵も握らせてもらえたらしい。2人ともこの2年くらいでずいぶんと強くなった。ほとんど捨てかけた人生も、立派に修正できている。何度来ても話すことはいっぱいある。娘が帰ってきて、生活ぶりを話してくれるようなものだ。今こうして文章を書いていると、2階から降りてきてクーラーの利いた薬局でマッサージ器を使っている。ほとんど遠慮無く僕とこうして時間を過ごすことが出来る子達が、治らないはずがない。いや、治せないはずがない。  同じ症状の人同志が接点を持つことが生産的だとは思わない。この2人だけ何故かそれが予想に反して好影響を与えあっている。どちらかが完治すれば片方を引き上げてくれるだろう。近くに成功体験があるって事が大切なのだ。さもないと足の引っ張り合いになってしまう。我が家にはその成功体験の典型みたいなのがいて、毎日薬を作っている。一歩間違えば、毎日薬を飲む側に回っていたかもしれないのに。過敏性腸症候群も又コツコツと努力して治すものなのだ。奇跡はあり得ない。