遺影

 僕にとってその人は、何十年も全く気配のない人だった。目が覚めると丁度布団の中から額縁に納められた端正な顔をした白黒の写真が見えた。何故かしら見ようが見まいが丁度視線の先に毎朝必ず現れた。 僕は物心付かないうちから母の里に預けられることが多かった。子沢山で薬局の仕事が忙しかったのも理由だろうが、母の里では叔父(母の兄)が若くして戦死したから、祖父母が寂しかったのかもしれない。その家ではそれこそ一人娘を身ごもってから叔母が若き未亡人として農家を切り盛りしていたが、僕ら甥や姪を我が子の如く世話をしてくれた。当時の農家は、牛や鶏を飼っていて、それこそ重労働だったのだが、若き叔母がどれだけの苦労を重ねたかは想像がつく。物心ついてからは、朝は朝星、夜は夜星で働いているのを鮮明に覚えている。田圃で牛を引く姿は頼もしかった。今の時代ならあり得ないのだろうが、叔母は生涯婚家に留まった。  痛みを消すモルフィンで意識はもうろうとしている。身体中の筋肉はもう無いが、顔だけは腫れている。目を見開いて時々瞬きをする。もう充分だろう、よく頑張ってきたのだから。せめて最期は痛みから解放してあげたい。モルフィンが切れたときだけ正気に戻り、少しだけ会話が出来る。希望のない闘病をどんな気持ちで耐えているのだろう。それを尋ねる勇気は僕にはない。  病院の帰り道、お墓に参った。墓前で僕は初めて写真でしか見たことがない叔父のことを思った。そしてもう迎えに来てやってと頼んだ。僕は遺影の顔をハッキリと思い出した。もう何十年も見ていないのに。そしてその顔をした青年に、80数歳の叔母を迎えに来てと、もうこれ以上苦しませないでとお願いした。65年前無念のうちに散った青年に、65年一人で家を守った叔母を頼んだ。あの世であったらお互いびっくりするだろうなと思いながら、もし出来るなら幸せな新婚生活を再現して欲しいと思った。こんな悲しい別離をどのくらい多くの人達が当時強いられたのだろう。墓に至る坂道にもう充分伸びたツクシが群生していた。それを摘んで佃煮にして頂くのが春休みの行事だった。幼い時も、学生の時も、子育ての頃も、そして現在も通い詰めた小道だ。今までは僕の祖父母のためにこの小道を登った。だがその日は明らかに、遺影の叔父に話しかける為に登った。無念が込み上げてきた。いつの時代も戦は年寄りが始め若者が死に、金持ちが始め貧乏人が死ぬ。ツクシを摘むことすらはばかれる無念の夕暮れ。