蔑視

 息子が7人乗りの車を貸してくれなくなってから、何処に連れて行くのにも4人だけだ。きわめて効率が悪いが、回数で稼ぐしかない。だから昨日訪ねた和気の藤公園に今日も行ってきた。昨日連れて行った子達が、一杯撮った写真を見せながら楽しそうに話したものだから、「オトウサン ワタシモ イキタイ」の声が当然上がった。今日は藤の花の話題ではなく、1つその公園で耳に入った会話を紹介する。  2時間写真を撮りまくってやっと帰る決心をしてくれた。僕は先頭を歩いていたのだが、気がついてみたら50mくらい離れた橋の上でまだ写真を撮っている。僕は川べりの小道の欄干に体を預けて川の流れを見ていた。すると背後を通り過ぎようとしたカップルの会話が聞こえた。男性が「まるで、別世界にやって来た見たいやな」と話しかけると女性が「ド田舎やん」と答えた。その部分だけが耳に入った。確かに男性の言うように駐車場から小道に入ると、目の前に朱色の欄干を持った木の橋が、背景には意外と深い緑豊かな山々が目に入る。そして橋を渡った所にそびえる和気清麻呂の巨像と和気神社への石段も目に入る。それらがまるで自然が織り成す絵葉書のように配置されているから、その若い男性は「別世界」と表現したのだろう。数年前に初めて訪れたときに「まるで小さい京都だ」と言う印象を持ったことを覚えている。渡月橋のミニチュアのような感じだった。恐らく僕と同じ感覚を彼は持ったのだろう。それに引き換え女性の方のまるで知性を感じられない言葉。知性は勿論品もない。せめてどちらかでも持っていれば許すことができるが、どちらもないとなると打ち首獄門だ。  ドをつける場合は確実に蔑視だ。この女性のように田舎に対してつけるほか、素人、阿呆、ケチ、悪党、チンピラ・・・もう思いつかないが、如何にも軽蔑対象に使われているのがよく分かる。こうして並べてみると、全てに当てはまる男がいる。安倍の何とやらと言う人間だ。そう言えば浜 矩子先生は最近アホノミクスにドをつけている。  関西弁のその若い女性は、自分の無能をおいといて、空気や水、食べ物や人の心までもが田舎の産物であることを知らない。それらを享受できる資格がない人間にまで、田舎は届けてくれる。いつの日かそのことに気がつく幸運にめぐり合えるか、はたまた無能のまま生きていくのか知らないが、耳を澄まし、目を開いて生きていくことを勧める。それはこと田舎かどうとかの話ではなく、社会を生かすか、社会に殺されるかの岐路に立ったときに、前者の立ち位置を確実にするために是非必要だ。