果熟

 さすが畑どころで、夏には色々な野菜や果物をいただくことが多い。昨日テレビニュースで、瀬戸内の漁業は多品種少量と漁協の関係者が表現していたが、陸の産物もひょっとしたら同じ傾向があるのではないかと思えるくらい色々なものをいただく。  この1週間のうちに2度同じ言葉を聞いた。初めて聞く言葉だったので、一度目は分からなかったが、つき詰めては聞かなかった。トマトを数回に渡って持ってきてくれた奥さんが最初は使った言葉だ。2度目は今日聞いた。自分で作った桃を持ってきてくれた奥さんが、その言葉を使った。「カジュクダカラ、美味しいよ」と言った。本当は数回聞き返して「カジュク」と言う言葉が分かったのだが、最初ははっきりとは聞き取れなかった。僕にその言葉の響きの周辺を探る語彙がなかったのだ。カジュクとは、木になっている時点で熟れたものを言うらしい。だからとても甘く美味しいそうだ。店先で並ぶのは、まだ青い時期に採っているので美味しくないと言っていた。果物も出荷しているお百姓さんが言うのだからその通りなのだろう。美味しくないと言われるとショックだが、店頭のものでもとても美味しく感じる僕の味覚の程度の方が余程ショックだった。美味しくないと言われるものを僕ら消費者は食べさされているのかと思うと、ちょっと情けないが、それは仕方ないことだ。漁師が、獲った魚を船の上でさばき、一番新鮮な味を楽しむのと同じ理屈だ。その道の人だけに与えられた特権だから仕方ない。 「どう言った字を書くの?」と尋ねたら、偶然だろうが話題が変わってしまったので、それ以上答えを求めなかった。手元にある子供用辞書にも、岩波の漢字辞典にも出ていなかった。僕の勘だと「果熟」だと思うのだが・・・ここまで書いて気になったので、広辞苑を調べてみた。やはり「カジュク」に相当する言葉は「家塾」しか出ていなかった。となると、これはこの辺りの人の方言か、造語かもしれない。こんど、あの方達が来たら聞いてみようと思う。  僕は日本語以外知らないが、やはりなかなか趣のある言葉だと思う。季節も食べ物も、恐らく群を抜いて繊細な感性をこの国の古人は持ち合わせていたのだろう。これから先、生まれくるものなど古人の作ったものに比べれば取るに足りないものだ。もの、モノ、物、もううんざりするほど溢れかえっている。何ら感動も与えられることもなく。たった、一つの言葉の向こうに繰り広げられた人間の壮大な営みに勝てる「もの」など無い。