来訪者

 この1週間、立て続けに県外から若き来訪者があった。この年齢で若者と同じ時間を共有できるのは恵まれているのかもしれない。  今日訪ねてくれた青年のお父さんと僕はまさに同じ時代を生きていたみたいだった。あるキーワードで彼は僕のことを当てたから、きっと、お父さんが話した若かりし日々の事を彼が覚えていたのだろう。ひょっとしたら彼のお父さんと、よく似た青年時代を生きていたのかもしれない。多くの若者が同じ価値観を共有した最後の世代だったのかもしれない。  大きな荷物を持って入ってきた。一つの青春を負っていた。青春に歌のように光と陰があるなら、彼は陰を負っている。嘗ての僕がそうであったから、訪ねてくる青年は全員がそうだ。光にあたっている人が来る必要もない。来るわけもない。ただ、陰を負っている事は何らハンディーでもないし、卑下することでもない。僕は輝かなかった分、冷静な目で多くのものを観て、軽薄な価値観に翻弄されることもなかった。自慢することは何もなくていい。自慢しないことが、その謙虚さこそが自慢すべき事なのだ。  懸命に生きても答えはない。繰り返される日常は時計の針を止めるほど退屈だ。ただただ、うらやましいほどの生命力を持った青年期を、否定しないで欲しい。壮大な無駄が青春そのものなのだ。無駄のない濃密な青春なんかぞっとする。おきな鞄に詰め込むのは、砂丘の砂と山陰の大波、それとわずかばかりの照れ笑い。