混乱

 僕自身の青年期を除いて、いわゆる青年と付き合ったのは、バレーボールを通じてだ。毎週2時間、かなりハードなスポーツを30年間笑いの渦の中でやっていた。その場で接する青年は体育会系の人間が多かったから、快活で行動的だった。勿論それは全体的な印象で、温度差は当然1人1人にあった。だが、おおむねひたすら明るく、単純だった。笑うか、怒るか、食べるか飲むかの繰り返しだった。深く話し込むことはいっさい無かった。言葉はいつも笑いのネタでしかなかった。漢方ではこの種の人達を陽と呼ぶのかもしれない。  陽があれば必ず陰がある。片や陰と呼ぶ人達とも接点はあった。集団での接点は無かったけれど、個人対個人の接点はずっと保たれていた。この種の人達は総じて活動的ではなく、声も小さく、笑いも少ない。集団で行動することは苦手で、規範的だった。思考は主に内面に向けられ、テーマはいつも自分だった。ため込んだ言葉は心から溢れ、ゆっくりと語られる。破壊を苦手とするのに、破滅的だ。思考を得意とするのに創造的でない。この、矛盾した情況を生きる姿こそが僕は彼ら彼女らのすばらしい個性だと信じている。混乱した情況の中で生きている姿は、見ていてとてもいとおしい。青春は混乱するもの。陽一点張りで生きている姿など、何の感動も覚えない。愁いに満ち、うなだれて街路樹の下を彷徨う姿こそ、絵になるのだ。僕が接した人達は全員絵になった。僕の心の中に、それぞれの絵を残していった。1人1人の生き方が、とても個性に満ちていたように感じる。陰だからこそ溢れる個性なのだ。明るく元気なんて、自分の辞書から消してしまえばいい。決してそれが目標なんかではない。生物としてみたら、若いのはきれいに決まっている。愁いに満ちた若さなんて、美の極致ではないか。溢れんばかりの笑顔を振りまくモデルに何を感じる。  否定しないこと。自分を否定しないこと。何も出来ないと考えることが出来る自分を否定しないこと。溢れんばかりの想いを作品にすること。その想いを宿している自分自身を作品にすること。キャンパスは、空の下でも、海の上でも、横断歩道の上でも、自分の部屋でもいい。自分がいるところが即キャンパスなのだ。世界でたった1人の自分はすばらしい。誰も自分と同じにはなれないのだから。違って良かったではないか。