船大工

 もう何年も、ある一つのものを定期的に買いに来る老人がいる。恐らく脳梗塞でもやったのだろう、歩くことも不自由だし、手も不自由、言葉も不自由だ。会話がほとんど出来ないから、僕はどこの誰か分からずに応対していた。今日、その方が薬局にいる間にある漁師が買い物に来た。その漁師が、老人を見つけて「元気にしてるの」と声をかけた。すると老人は、片手を上げて笑顔で「おっす」と答えた。老人が人の呼びかけに答えるのを見たことがなかったので一瞬驚いた。  老人が出て行ってから漁師が教えてくれた。自分の船を造ってもらったらしいのだ。要は船大工なのだ。元船大工と言った方がいいだろう。だから注文主のその若い漁師を見て笑顔をしたのだろう。昔のお得意さんな訳だ。  彼の説明に拠るとその老人は、現役の時はめっぽうお酒が好きだったらしい。漁師町で又船大工が並ぶ界隈で、めっぽう酒が好きとなると半端ではないだろう。恐らく朝から酒を飲み、のみを握っていただろう。そのあげくが今の症状なのだろう。そのくらい容易に想像が付く。  さて、その老人はぺっぽう酒が好きで手足の自由と言葉の自由を失った。若いときは人の何倍も酒を飲み人生を謳歌したに違いない。よく働き、よく飲み。一方、僕は30年間堅い床の体育館でバレーを楽しんだおかげで、首と腰が痛みきった。アタッカーで飛び続けたせいで、脊椎間のクッションがすり減っているのだろう。毎朝今日は動けるか確かめないと予定が立たないくらいだ。ただ僕はバレーのおかげで、30年間週に1度、数分に一度笑い転げながらストレスから解放されていた。汗を滝のように流し、吉本新喜劇の数倍笑えるとしたらどれだけ健康にいいだろう。それを僕は幸運にも30年間繰り返した。ところが、腰と首がついに持たなくなり、バレーは断念した。もうあのように笑い転げることもない。シャツが透き通るほど汗をかくこともない。今できることと言えば、急に襲ってくる痛みにおびえながら、仕事をしたり研修会に出席したりすることだけだ。当時何の心配もしなかった。関節を痛めて、その後の人生がこんなにつらいとは思わなかった。ずっとこのまま痛みを確認しながら何十年も生きていくのだろうかと、空しさに襲われることがある。それではあの30年を否定するのかと言えばそれはあり得ない。唯一の心の解放、唯一の運動だった。あれがなければ、その時点で気力体力を失い、もっと重大なトラブルに陥っていたような気がする。腰や首のうっとうしさをつい優先して、当時バレー三昧だったことを後悔し勝ちだが、それは身勝手すぎるような気がする。終わりよければ全て良しといえるほど、人生は短くない。あの30年をせめて健康に暮らして来れたのはバレーに拠るところが多い。あの時代がなければ今僕は存在していないかもしれない。息子より幼い青年と対等に競っていたのだから、得た気の力は相当だったはずだ。  老船大工も僕も、所詮好きなことが過ぎて得た結果。人の同情は得られない。せめて将来の僕自身の骨格系の痛みの為に、漢方薬の実力を今の内に身につけておきたい。