覚悟

 朝一番にやってきた老人が咳止めを求めた。咳と痰だけだから作り置きの咳止め薬を3日分渡した。尋ねもしないのにその男性が「この前、頭が悪いから医者に行ったんだけれど、老衰じゃといわれて何もくれんかった。もう80歳を過ぎたら相手にしてくれんわ」と苦笑いしながら訴えた。この男性はそれこそ働き者でかくしゃくとして未だ畑に立っている。往年の力はさすがにないが、同年輩の人に比べればダントツで元気だし、何よりも現役で稼いでいる。本当に老衰という言葉を用いたのなら、それは明らかに国語力の問題だ。何もその老人を傷つけようとして言ったのではなく言葉の選択を誤っただけだろう。悪意は感じられなかった。「もうお歳ですから頭痛くらいあり得るでしょう」なんて丁寧に返事を返してあげれば良かったのだろうが、老衰はいけない。さすがの漁師言葉の僕でもそれは言えない。  単に選択の誤りなら可愛いものだが、どうも覚悟のない言葉も溢れ前言を取り消すことがしばしばだ。僕ら庶民なら何ら影響はないが、このところ肩書きに酔っている輩のそれが連発している。権力なるものを手に入れると、それを行使してみたくなるのが世の常なのか、口が軽くなるみたいだ。それらの輩は便利な掃除機を持っているのか、前言をあっけなく回収して知らぬ顔だ。その厚顔たるや甚だしいが、その覚悟の無さの方が心配にもなる。煮ても焼いてもなくすることが出来ない、自分で消滅するのを待つしかない、見えない、触れない、感じられない、臭わない、聞こえない殺人物質と対峙しなければならないこの国の人間にとって、覚悟を知らない言葉に導かれるほど不幸と屈辱はない。  船から落ちれば死ぬ漁師達のホラ話のほうが、余程覚悟を伺わせる。