錯覚

 小出先生が国会議員の前で原子力発電に対して意見を述べた後で、締めくくりとしてガンジーの言葉を引用した。それはガンジーのお墓に刻まれている7つの社会的罪と言うものらしいのだが、具体的には次の7つだ。理念なき政治、労働なき冨、良心なき快楽、人格なき知識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき宗教。とくに聴衆である政治家に対してハッキリと理念なき政治を戒め、宗教を持っている人には献身なき宗教を戒め、原子力に群がった企業には道徳なき商業を糾弾し、同じ科学者として人間性なき科学を自戒していた。  嘗てガンジーが言った言葉なのだろうが、今はまるで小出先生の言葉のように聞こえてしまう。嘗て僕達も青春の頃、この7つの言葉のように考え行うように自分たちを律していたように思うが、時と共にこの逆の方向に歩み始めていた。そしてこの逆に進んだからこその果実を得て、それでまずまずの人生だったかのような錯覚に陥っている。今回の想像できない規模の犯罪行為による被害をきっかけに、小出先生のように嘗てのまま純粋に生き続けてきた人がいたことを知った。自分が恥ずかしく思えるし、今からでも遅くはないとも思える。 被害者を救うために東電は何度破産しても償えないし、国も何度破綻しても救えないと言っていた。それだけ一人一人の生活は重いのだ。基準値を意図的に引き上げて被害者と呼ばれる人を少なくしようとしているのだろうが、こんな犯罪的な事故を起こして誰も責任を問われないことも糾弾していた。利権に群がって巨額の金を手に入れた人間達が誰も裁かれないことに違和感を覚えるのは小出先生だけなのか。  何でもかんでもお上の言うことは疑ってかかり、胡散臭いものをかぎ分ける嗅覚には自信があった。当時の多くの青年のように。ただ、遺伝子を破壊されゆっくりと命を蝕まれる現代の青年達の声が聞こえない。煮ても焼いても消えない恐怖が、煮ても焼いても食えない奴らのせいでまき散らされているのに。