媚び

 県北から過敏性腸症候群の女の子が1人で訪ねてきてくれた。一連の作業が終わった後娘が邑久駅まで送っていくことになり少し時間をつぶしてもらうことになった。県北だから海が珍しいというので、自転車を貸してあげた。少しの時間をおいて帰ってきた。彼女の海を見た感動話が印象的だった。同じ県内でも違うものだなあと印象深く聞いた。  バスから降りたときの風がもうすでに違っていたと彼女は言う。さわやかな風と表現した。海辺でも同じ風が吹いていたみたいだ。彼女が行った場所は、僕の犬の散歩コースで、今まさに募集中のリゾートマンションが完成間際の海岸縁だ。そのマンションには入れないが、その下から海を眺め、マンションから眺める景色を想像したみたいだ。あんな所に住みたいと言っていた。彼女が住んでいる県北の町は、夕陽が例えば地平線や低い尾根などに降りるのが見えないのだそうだ。山が高いのか、早くからあっという間にいなくなるみたいだ。沈みゆくと言う形容などは出来ないみたいだ。夕陽が沈むのを見てみたいと言うから、いつでもおいでと答えて置いた。  1日中波のように襲ってくる腹痛も、僕の薬局に来てからは起こらなかった。3時間くらいいたのかもしれないが、その間恐怖のケーキを食べても腹痛は起こらなかった。ひょっとしたら漢方薬より僕の方が効くかもしれないから、いつでもおいでと言っておいた。こんな所に住みたいと、意外と強い口調で言った。 若い素敵な生命力に満ちあふれている世代の人達が、やりたいことを諦めているのを聞くのは忍びない。彼女がやりたいことを2つ教えてくれた。絶対近い将来実行してもらいたい。何とか力になってこんな不合理なトラブルから抜け出て欲しい。彼女が住みたいと言ったリゾートマンションを買える余裕があれば、訪ねてきてくれる人達に提供したいが、なにぶん僕にはそんな余裕はない。売ってお金に替わるものも持ってはいない。いやまだ一つだけ大事にとっておいたものがある。売らずにとっておいたものがある。そうだ、媚びだけは売らずに残していたんだ。よし、これから僕は金持ちや偉い人に媚びを売るから、マンション一部屋分のお金に換えて。