自転車

 目が覚める前からその日の天候が想像がつくような朝だった。案の定いやいや離れた寝床からリビングに行くまでに、足の裏は床の冷たさを嫌いつま先立っていた。カーテンを開けると大きな牡丹雪が降っていた。空気の抵抗に遭い勢いはないが、視界を覆うくらいの存在感はある。  一連の朝の支度を終え薬局のシャッターを開けると同時に、自転車から一人の中年の男性が降りて入ってきた。入る前にカッパの雪を払っていたが、払いきれない雪は解けて水になっていた。床に水滴となって落ちる。ドリンク剤を飲みに入って来たらしく、自分でストッカーの中を探しチオビタをカウンターまで持ってきた。  初めてお会いする方なので話しかけてみると、朝早く雪の中を自転車をこいでいた意味が分かった。彼は岡山市から時々自転車で牛窓にやってくるらしい。丘の上に上りボーッと島を眺めるのが好きなのだそうだ。浮かぶ島が好きなのか、浮かべている海が好きなのか、空とのコントラストが好きなのか分からないが、単に島はあり続けるものとしての認識しかない僕にとっては、新鮮な響きだった。牛窓は多島美を誇る眺めではない。穏やかに鏡のように光を反射している静かな海だ。浮かぶ島も低くて横に長く広がっている。何がそんなにいいのか尋ねてみたかったが、それこそ彼の楽しみに水を差しそうなので我慢した。  日に焼けているのだろう、色が黒くて引き締まった顔つきだった。これから又自転車をこいで雪の中を岡山市まで帰っていくらしい。時速30キロだからとなにやら呟いていたが、その数字に又驚かされた。そうか、彼は自転車で1時間で帰るのか。車でも、安全運転を心がければ4~50分かかるのに。健全な感性に頑強な肉体。うらやましいとは思わなかったが、開いた扉から侵入した氷点下の空気のように、僕の身体を一瞬身構えさせた。