幻想

 今まで得た経験や知恵を生かして、もし人生をやり直すチャンスがあっても、所詮同じ程度のことしかできないと思う。倍も有意義な人生など送れないだろう。下手をしたら、今の人生より低空を彷徨うかもしれない。経験が勇気を与えてくれるとは限らない。ためらいや臆病に転化するかもしれない。知恵が生産的とは限らない。欺く道具となったり凶器にもなりうる。戻りたい時代など無い。ゲーム機メーカーや受験産業を支える幼いお得意さんにはなりたくないし、修理も許されない、使い捨てのロボット以下の労働者にもなりたくない。  いくつもの危うい分岐点は、何に導かれたのか分からないが、かろうじて自滅の道を免れた。親の生き様だったのか、乱読した本の手あかだったのか、焼き玉エンジンが響く入り江の風景だったのか。拠り所は与えられたものが多くて勝ち取ったものは少ないが、これだけ生きてきて悟った非力は、穏やかで居心地がいい。今日一日分の時計をかじれば、幻を回顧することもないし、幻想を夢見ることもない。短針を追い抜く長針にためらいはないのだから。