品位

 たしか彼は、僕より1級上の人だ。髪がぼさぼさで、衣服が臭い、あごと耳の下に大きな湿布を貼っているからちょっとわかりにくかったが、嘗ての面影はある。一風変わった人ではあったが、特別礼儀正しさには定評があった。頬の左半分と首がひどく腫れて左右が全くバランスを失っている。恐らく熱と痛みが相当あるのではないかと想像される。その彼がやってきた理由は、その腫れと痛みを治して欲しいと言うことだった。歯肉炎か歯髄炎か骨髄炎か僕には分からないが、服薬は抗生物質が必要だろう。勿論歯科医の処置も必要と思われる。僕はそのことを説明して僕がいつもお世話になっている歯科医に行くように促した。ところが彼は何故か僕に治して欲しいという。僕は処方箋なしに抗生物質を与えることが出来ないから歯科医にかかるしかないと説得した。それでもなお食い下がる彼の理由が分かった。保険証がないらしいのだ。だからレントゲンを撮ったら何円いるかとか、治療代はいくらだろうかと僕には関係ない、分からないような質問を重ねたのだ。性格は変わらないのだろう、とても丁寧で親しみやすいほほえみを浮かべて、恐らくかなりの苦痛を隠して話しかけているのだろうが、保険証がない生活の質を風貌は隠しきれなかった。どんな理由で保険証がない生活を余儀なくされているのか分からないが、顔の半分が腫れあがるまで我慢したのだろう。どれだけの痛みだろう。数日食事をとっていないとも言っていた。彼に家族がいるのかどうか分からない。田舎だから家はあるのだろうが、悲鳴が届く所に人はいるのか。気にかけてくれる近所の人や友人はいるのだろうか。泣きついていける最後の機関は両手を広げて待っていてくれるのか。  生活の困窮の中で、病気の中で品位を充分保っていることが哀れだった。痛みで、空腹で人格が変わっても不思議ではない。恐らく僅か1錠数十円の抗生物質で痛みや腫れはしのげるだろうが親切も同情も法を犯しては継続しない。無力感にさいなまれながら、寒風の中自転車をこぎながら消えていったその人のことが頭から離れない。恐らく日本中で繰り広げられているありふれた日常なのだろう。それも増殖中の。