サポーター

 ワールドカップの日本とオーストラリアの試合開始に合わせて、僕の心はピークを迎えていた。サッカーには、ほとんど興味がなかったのに、この数ヶ月のマスコミの報道のせいで、すっかりファンになっていた。そうだ、サッカーは、ファンとは言わないんだ。サポーターと言うのか。サポーターと言えば、身体を痛めた時に身につける医療器具しか知らなかったのだが、最近はアクセントが最後の方に来るサポーターの意味も覚えた。  中村の幸運なゴールが入ったときには、ガッツポーズが自然に出たし、福西のロングシュートが外れたときは落胆のポーズを自然にした。僕にとってそのポーズはバレーボールをしているときの自然な姿なのだが、テレビの前で1人でやっていたと思うと、気恥ずかしくなる。ゲームの進行に合わせて僕はだんだん覚めて来た。不思議と一点をリードしていた時から、それは始まっていた。断然ボールを支配されつづけている日本チームの非力さが歴然としていたから。僕はこの数ヶ月のマスコミの報道に疑問を感じ始めていた。この程度の実力であれだけ国内で煽って視聴率を稼ごうとしていたのかと。視聴率イコール売上だ。マスコミの力を思い知らされた。全然興味も持っていなかった人間が、わずか数ヶ月で変身してしまう。もしこれがサッカーではなく、もっと、他の事柄だったらどうだろう。人を不幸に導くことでも、マスコミを総動員すると、とんでもないところに国民を誘導できる。実際にこの数年、マスコミが煽った政治家が、格差を広げて貧乏人を増産した。マスコミが煽った人間が、金で心や命まで買おうとして捕まった。そして、それを後ろから操っていた人間は今日も知らぬ顔をして次なる金儲けの標的を探している。  テレビは見ない方が良い。新聞は読まないほうが良い。耳を澄ませて、正しい人の言葉を聞きたい。目を凝らせて正しい人の行いを見たい。サッカーの虚像が僕に教えてくれたことだ。