自裁死

 さすがに評論家だ。難しい言葉を使う。凡人なら自殺だろうが西部邁となると「自裁死」になる。
 あれだけの論客だから、ニュースを聞いたときに自殺の理由に興味を持った。僕はこの手のことや、テレビに露出する人間達のプライバシーには全く興味はないが、この評論家と自殺が結びつかなかったので興味を持った。遺言も残されていたらしいから、いずれ理由は明らかにされるのかと思ったが、よくよく調べてみると、数年前から自殺をほのめかしていたらしい。頚椎が歪んでイタイイタイを口に出ししばしば横になっていたらしいから、生活の質はかなり悪かったのだろう。もしそうなら、単なる病魔からの逃避だ。病気と戦っている人たちには失礼な話だ。やるならそっとしなければならない。マスコミを騒がせてはいけない。
 僕はああした有名な人は不自由だろうなと思う。テレビの討論などで、相手を負かしたり、 馬鹿にしたり、強がり続けなければならない。又勝ち続けなければならない。強面を装い弱いところなど見せるわけにいかない。自分に自信もあるのだろうが、謙遜を知らない。こんな人でも着々と老いは進行し、骨はスカスカになり、筋肉は落ち、内蔵はその働きを落とす。日常のあらゆる事が不自由になる。強さも早さも柔軟性もすべてが衰える。若者から見れば哀れなものだ。哀れな動物だ。彼はそれに耐えることが出来なかったのではないか。自分の美学では、耐え難いのではないか。哀れな醜態をさらすことがもうそこに迫っているときに、いや既にその真っ只中だったのかもしれないが、格好もつけられなくなったのではないか。
 自殺と言わずに自裁死と敢えて呼ばなければならなかったほど、彼は自分の醜態を毎日見さされていたのではないか。首から上が、首から下を許すことが出来なかったのではないか。川に飛び込めば自然に身体は浮き「泳げてしまう」のが普通だ。溺れることは泳げる人間にとっては難しい。それが出来なかったのは彼の体がよほど不自由になっていたのだろう。僕には単に、生きることが辛くなったとしか思えない。受け入れがたい老いを遮断したかったのではないかと思う。
 僕ら庶民は庶民であることを喜ばなければならないかもしれない。負かされたり、馬鹿にされたり、弱音ばかりを吐いたりしながら生きていけるのだから。