同義語

 「なんでえ、こりゃあ!」も「なんじゃこりゃあ!」も「どうしたんでこりゃあ!」も、岡山県人なら同義語だと分かる。否定、或いは呆れた時に使う言葉だ。どちらかと言うと両方を含んだときに使うことが多い。
 従姉の旦那が何度もこの言葉を使ったのは、49日で母の墓前に集まった時のことだ。隣の墓地は背丈をはるかに越える枯れ草で覆われていて、かすかに墓石が見える。夏だったら恐ろしくて足を踏み入れることは出来ないだろう。何度訪ねてもまさかその墓石を覗くようなことを僕はしないが、従姉のだんなは興味を持ったのか覗き込んでいた。そして墓石に刻まれた文字を読んで、「まだこのお墓は新しい。平成3年じゃ」と言った。僕は「まだ新しい」と「平成3年」が結びつかなかったが、考えてみればお墓の歴史としては新しいのかもしれない。多くの墓地を見てきたが、確かに何時代か判らないような小さくて壊れた墓石があることが多い。そういった経験があのような言葉を出させたのだろう。そしてその言葉の真意は、見ず知らずの「墓を世話しない人への怒り」なのだ。牛窓よりずっと田舎に暮らす僕の従姉の家は、母の実家だ。まだまだ古きよき時代が残っていて、いつお墓に参っても必ず枯れていない花が備えられている。歩けば家から15分くらいかかる山の中腹にあるのに、何日おきに参っているのだろうと考えさせられるくらいだ。だからこの荒れ放題の墓を見て、呆れを通り越して怒りに近い表現を用いたのだろう。
 勿論彼にも放置された理由は分かる。日本中で起こっている現象でもあるし。彼の価値観がやり場のない怒りに変っただけなのだ。誰の責任でもない。経済的に豊かでない人が多く取り残されている時代に、身の回りを整えることなど不可能だ。孤立して生きる現代人に差し伸べられる善意は少ない。
 両親がこの墓地を買ったころは、海が眼下に見えていた。ところが今は丸で木のように育った笹で海は全く見えない。あたかも視界を失った時代のように。