一蹴

 やっと僕の考えと同じような方の講演が聴けた。僕の先生が亡くなってから、全国で行われる漢方講演会のズーム配信で知識を得ようと苦手なパソコンに向かっているが、ほとんどは理論が高度過ぎて、理解すらできないことが多い。
 実は今から10分前に2時間にわたる講演が始まっていたのだが、10分で退出した。自然界と体内の出来事をリンクさせて処方を決めると言う理論を展開して説明してくれているのだろうが、なるほどと思う反面、医療は哲学じゃないだろうと思ってしまう。だけどほぼこの学説が優勢で、その知識について行けない人間にとっては、外国語を訳も分からずに聞いているのと同じような劣等感に陥る。
 ところが数日前の講演では、「これを言っちゃあ、おしまいよ」レベルのことを講師の先生が言われた。なんと今の漢方の流れの主流を行っている人達の最も崇高なよりどころである「証」を一蹴したのだ。すべての漢方治療は、患者の証を確定してこそ始まると言うものなのだが、人間だからみんな似たり寄ったりの所はあるが、その似たり寄ったりで処方が決まると言うのは、便利すぎる。診断技術がない1000年前には統計的にこんな人はこんな病気になりやすいと言うのがよりどころであってもいいが、この科学の時代に現代医療の診断に優先できるとはとても思えない。えらい先生の症例発表の時に決まって添えられる言葉に「もちろん証に従って決められなければなりませんが」があり、その言葉が僕ら凡人を委縮させてしまう。下痢を訴える患者に、僕ならどんな状況で、どんなうんちが出るかを問題にするが、えらい先生は患者の背景を重要視する。
 無学な人間の遠吠えでしかなかったものが、先日の講師、たぶん医師の漢方の分野では有名な方だと思うが、によって完全否定されたことで長年の溜飲が下がった。
 朝が来た。たったこれだけで表現できることを、幾通りにも検証しないと朝が来たとは言えない、そんな不自由さから幾ばくかは解放された講演だった。

世情 [Sejou] / 中島みゆき [Miyuki Nakajima] Unplugged cover by Ai Ninomiya - YouTube