無心

 草抜きをしている時くらい無心になれればいいが、なかなかそうはいかない。どこの辺りが伸びて、どこの辺りはまだ余裕があるなどと考えるのはまだ無心の一つの光景だろうが、以下のようなことは無心の範疇には入らないかもしれない。
 雨上がりで、気持ちよく抜けるからこの数日は草抜きの能率が上がった。ずいぶんとはかどったと思うが、数日前に綺麗にしたところからもう緑豊かな生き生きとした若い草が顔を出し始めている。
 その時に思ったのがいくら頑張っても所詮いたちごっこだと言うこと。焼却炉で枯草を焼きながら草を抜くのだから、はるかに効率は悪い。ただし、作業を変えることにより使う筋肉も変えて、ダメージを防がないと、仕事に差し障るからかなりナーバスになっている。
 「いくらやってもいたちごっこだ」と絶望感にふと出た言葉がしっくりいかなかった。今の時代に「いたち」を実際に見た人がどのくらいいるのだろう。言葉の由来となった動物をイメージできる人がどれくらいいるのだろう。
 いたちを見たことがない人には「いたちごっこ」と言う言葉は難しいのではないか。むしろその絶望感を表すには「草抜きごっこ」のほうがしっくりくる人が多いのではないか。いくら抜いてもいくら抜いてもと言う終わりのない労役を表すには草抜きごっことのほうが現実味がある。
 ただしいたちごっこと言うのは双方が同じようなことをしてエンドレスになると言う意味みたいだから、草抜きの双方とはいったい何を意味すればいいのかと言う問題がある。草と僕が双方でいいのか?はたまた抜かれる草と芽生える草でいいのか?確たる自信はない。

 

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