鳴き声

 昨日の午後7時5分。今年初めてのセミの鳴き声を聞いた。ミーン、ミーンと繰り返すのではなく、ミーンと言う鳴き声が2か所から一度だけ聞こえた。
 セミが鳴けば夏本番がやってくる。夏本番がやってきたからセミが鳴く。主役を置き換えれば表現も異なる。セミにはどうでもいいことだ。雨が続いてお百姓が嘆くこと嘆くこと。灌漑設備も整って水不足を嘆く声は聞こえなくなったが、水過多はいまだ嘆くしか手がないみたいだ。勇み足気味のセミに責任はない。朝から晴れていたのに、午後4時。再び大きな音を立てて雨が降り始めた。こうなればセミも鳴くのを遠慮するしかないだろう。
 セミの記憶はなんだか物悲しい。幼いころ、小山に上り、網でセミを捕まえ、ホルマリン注射を打ってピンでとめ、菓子箱いっぱいに並べて夏休み明けに宿題として提出した。痴呆の晩年、数年間、母を施設から連れ出し、野球少年たちが黄色い声を上げながら、つたないプレーに打ち込んでいるのを二人で眺めた。僕はいつも車いすの後ろに立ち、すでに会話ができなくなった母に時々不器用に話しかけた。間を埋めてくれたのは、頭上でけたたましく鳴くセミの声だった。
 何もできないのに、とにかく通い続けなければならないと思っていた。無限の愛を注いでもらったお礼?子としての義務?のどかな田園に立つ施設は、季節を引き連れている。ただ自動扉の外に出るだけで母が幼い頃を過ごした季節があった。だが故郷に帰ってきたことを一度も思い出すことなく逝った。セミの鳴き声は僕にとっては葬送の曲なのだ。