難解

 セールスの応対中に明るい声で挨拶されたのでカウンターに行くと、ある男性がにこやかな顔をして僕のほうを見ていた。すぐに名前を名乗ってくれたのだが、僕は瞬殺でその方を思い出した。
 ただし、もう30年くらいは会ったことがないと思う。行き場を失ったような形で大学を卒業後牛窓に帰ってきたのだが、地元の町会議員選挙を商工会青年部のメンバーとして手伝ったことがきっかけで知り合った。僕もその方も、いやいやその方は筋金入りの反体制だと思うのだが、それが年寄りの地元選挙がきっかけで知り合うとは皮肉なものだ。ただ僕はお祭りさわぎ、その方はご自分のライブハウスに入り浸っていた学生がたまたまウグイス嬢のアルバイトしてくれたという間接的なものだ。
 パイプをくわえ、どんぐりみたいな髪型、耳にはピアス。僕より数歳年上だと思うのだが、さすがに今でもライブハウスのオーナーらしくて、そのいでたちに全く力みがない。自然そのものだ。かつて余りにも難解な言葉が連射され、とてもそのレベルについていけなかったのだが、見るからに包容力が身について多くの人を受け入れていることが想像つく。それが証拠に、45周年記念と銘打ったパンフレットを見せてくれたのだが、それはほとんど1mm四方くらいの小さな文字で埋め尽くされた30ページにもならんとするもので、多くのアーティストがコメントを寄せている。オーナーに大切にされたミュージシャン達の気持ちが紙面から溢れるが、45年もの間存続し続ける理由が分かる。
 もともとは映写技師だったような記憶があるのだが、現在の肩書きはどれだって言うほど多くて又これが難解だ。多くの講演をこなし、多くのトークイベントに出席し、多くの文章を表し、多くの芸術作品を残し・・・一体どう紹介すれば分かってもらえるのだろう。
 「忘れられた庭園学ーこもり水と仙庭」と言う内容で、近代化の中で寸断、忘却されようとしている日本人の精神的系譜を「水庭」と重ねて・・・・・・・わからん、頭の中はどうなっとんじゃ!
 今から思えば何がどうなってそんなことが起きてしまったのか分からないが、当時その縁で僕もそこのライブハウスで歌った。当時は僕みたいなものでも歌えるくらい日本の唄はレベルが低かったのだが、それを最後に薬剤師として生きるようになった。地に足がついていない10年近い青春からの卒業の時期だった。片やその後もますます大活躍の人が訪ねてきてくれたことが素直に嬉しかった。僕は今を懸命に生きているので振り返ることは苦手なほうだが、10分くらいのタイムスリップもいいものだった。