トロッコ嵯峨野

 トロッコ嵯峨野の駅に12時丁度に着いて、そこで偶然会って喜ぶ様に演出していたのに、なんと京都在住の僕の若い友人は来ていなかった。20分くらい待ったが現れないし、携帯電話もつながらなかったので諦めて、そこからも僕がかの国の女性4人の観光ガイドをすることになった。トロッコ列車を降りてから全て彼女に丸投げの予定だったから、正直慌てた。ただ、半年前に彼女に案内された行程を全て頭に入れていたので、嵐山あたりの案内は粗相がない自信はあった。案の定、嵐電駅のまん前の大きなお寺とそこから通じる竹林、そして渡月橋は十分案内できたと思う。1時間くらいそれに費やしただろうか、滅多にない公衆電話を見つけて3度目の挑戦をしたら、彼女が電話に出てくれて、やはり嵐山に来てくれている事が分かった。  そこからはもう神様に会ったようなものだ。いや京都だから仏様だろうか。僕は彼女の後をついていくだけでいいのだ。すでに2回京都を案内されているから、なかなか自立できなくて安易に頼ってしまうようになっているが、これからも頼りきろうと思っている。彼女が現れてくれてからは、僕も一旅行者になれた。もう何度も京都に行っているが今日が一番楽しかったような気がする。理由はいくつかあるのだろうが総合的な判断だ。4人の女性達が、一つ一つの体験をとても素直に口に出して喜んでくれたこと。トロッコ列車からの風景が、海辺に暮らしている人間にはかなり珍しかったこと、知らない日本人や外国人の旅行者と言葉を交わす機会が多かったこと、そして何よりも僕の若い友人が寝過ごして遅刻したこと。まじめすぎることを心配している僕に、遅刻して待たせてしまうような偉業?が出来たことだ。  年齢を重ねると失うものも多いが、時に得ることもある。今日気がついたのだが、歳をとると多くの人や生き物を愛したり大切に出来たり尊敬することが出来るようになった。いや、人だけでなく多くの物事にも感謝できるようになった。若いときに犯した多くの罪をこうして少しずつ許されていくのだろうか。  京の自分にも、今日の自分にも、満足している。かの国の4人の女性達と、若い友人のおかげだ。