至近距離

 ただひたすら歩き続けるのも効果がどうかと思い始めて、最近は1周するたびに、放置された机の前に立ち止まり、ストレッチをすることにしている。といっても難しいことは出来ないから、相撲取りがしこを踏むように足を開いて腰を落とす程度だが、これだけでもなかなか気持ちがいい。変化にも富むから20分が以前より早くやってきてくれる。  今朝、机の前で最初のストレッチを始めようとしたときに、テニスコートを囲んでいる網のフェンスに糸がほつれているところがあった。だが、よく見てみるとそれは糸ではなく糸トンボだった。別に保護色ではないのだろうが、緑色をしていたから正にほつれた糸に見えた。糸トンボとはよく言ったものだ。  僕が子供だったら、必ず捕まえていただろう。僕が数十センチ離れたところで、ストレッチをするために、身体を上下したって微動だにしなかったから、捕まえるのは簡単だろう。ただそんな必要もなく、見ているだけでいとおしくなった。あの細い身体で生きていてくれたんだと、また生かしてくれている環境にも感謝したいくらいだった。年齢を重ねるとこんな感傷に浸ることが出来る。生命力が旺盛な頃にはとても味わえない感傷だと思う。  何週目かにいなくなったが、どうして僕が恐ろしい存在に見えなかったのだろう。命を奪う危険な存在に見えなかったのだろうか。少しの間でも至近距離にいられたことが早起きの褒美のように思えた。