出来過ぎ

 結局僕は母の目の前に姿を現すことが出来なかった。遠くから後ろ姿をしばし眺めるだけだった。母は我が家にいたときと同じように一点を見つめていた。目の前に二人入居者がいたが、僕が見ている間、お互い会話はなかった。 思えば家にいたときも状況は同じだった。仕事時間が長い僕の家では、施設から4時に帰って、その後夕食の7時半までは一人2階にいて、モコを相手に独り言を繰り返していた。家にいたときと何ら変わりないなら、寧ろ先週面会した娘曰く「粗相をしても叱られないから施設の方が居心地が良いのでは」と言う感想どおりだとしたら、そろそろ姥捨ての後ろめたさから解放されても良いのだが、どうしても払拭できない。今日施設に1人で訪ねたときも、何度も母の前に姿を現そうと試みたが、結局は出来なかった。 来月の新しいケアプランと今までの経緯を説明するという連絡を受けて訪ねたのだが、ケアプランの説明も、リハビリの様子も、それぞれ若い男性の担当だった。ケアプランの方は30代、リハビリ担当はまだ20代前半に見えた。彼らの浮かべる満面の笑みに比べて、僕の表情の恐らく険しいこと。専門職の力量を見た。  本来なら若者の力は生産に向かうべきだと思うが、求人チラシを見てもこの様な施設のものが多い。どちらかというと物事の終わりに立ち会う仕事に、いやな顔を見せずに従事している彼らに頭は下がるし感謝しているが、どこか不自然な気はする。世話になっていて言うのもおかしいが、若者は本来、生産的であり破壊的だ。うまくは言えないが、「できすぎている」