誤解

 昨日、昼から母の施設を訪ねた。母がお世話になっている施設は、母が生まれ育った実家から数百メートルしか離れていない。その家が峠から見下ろせるあたりに、大きな池がある。その池を横目に見ながら峠を下るのだが、そこを通るたびに母が幼い時の話をした。なんでもその池で泳いでいて溺れそうになったのだそうだ。どう見ても灌漑のために作った人工の池だから、堰から急に深くなっているだろう。水面もいつも青々としているからかなり深いと思う。  母の実家は即、僕が幼い時に預けられていた家でもある。薬局をやっていて5人も子供がいたら、世話が出来ない。そのせいで僕はしばしば預けられ、農家の子の様に育った。優しい祖父母とおばがいて、幸せな幼少期だったと思う。  そうした記憶を思い浮かべながら峠を下っているときに、ふるさとと言う唱歌が頭に浮かんできた。僕はいつまでその歌の詞を誤解していたのだろうと最近考えたことがある。と言うのは、僕と同じような誤解をしていた人の文章を読んだからだ。その時、「ああ、僕だけではなかったんだ」と思ったし、ひょっとしたらかなり多くの子供達が、いや若干の大人も含めて誤解しているのではないかと思った。古文と現代国語を習う国だから仕方ないが、そして何を勉強していたのだと言われるかもしれないが、同じ過ちを繰り返さない(戦争か!原発事故か!)為にここで披露する。

(元歌) 兎(うさぎ)追いし かの山                 小鮒(こぶな)釣りし かの川                夢は今も めぐりて、                    忘れがたき 故郷(ふるさと)               

(僕の勘違い) うさぎ美味しいか 野山君 小面憎いか 野川君 夢は今も めぐりて 忘れた 敵 故郷(ふるさと)