死に目

 「死に目に会えなかった」と老人は嘆くがどうもその言葉の使い方が正しいとは思えない。  1年くらい前突然夫婦でやってきて、心臓の漢方薬を10日分ずつ持って帰る。遠くから心許ない運転でやってくるのだから、もう少し沢山持って帰ればいいと思うのだが何故か毎回10日分だ。もうかなり高齢なのに、薬局に来てまでよく喧嘩をする。お互い耳が遠いらしくて余計喧しい。最初奥さんの問診をして薬を決め服用して貰ったのに、何故か途中から旦那の方が薬を飲んでいる。途中と言ってもほとんど翌月くらいから旦那の方が飲んでいたらしい。そう言えば奥さんには心臓が悪そうな様子はなく、旦那の方が喋るたび息を切らせていた。  奥さんの様子を見て薬が欲しくなったのか、自分の症状を奥さんに言わせたのか良く分からないが、結果的には旦那が薬を飲んでいた。今日、漢方薬を取りに来たのだが珍しく旦那が薬局に入ってきた。いつもは足が悪いから車で待っているのだが、奥さんではなく自分で取りに入って来た。その時になんで一人でやって来たか説明してくれたのだが、例の使い方が正しいのか間違っているのか分からない言葉が出たのだ。 「実は先週、嫁が死んだんだわ。デイケアから二人一緒に帰ってきてソファーに腰掛け、ワシがトイレに行って帰ってきたら死んどったんだわ、オシッコだから2,3分しか行ってないと思うんじゃが。死に目に会えんかったんが残念じゃ」 2,3分どころか、ひょっとしたら1分くらいかもしれない。この不意打ちのような短い時間に立ち会うのは難しい。死を予感して片時も監視を怠らないのならまだしも、元気な人にその様なことは出来ない。枕元で看病して遭遇するのが死に目だとしても、この場合も正に死に目だろう。死にゆく1,2分会えなくても3分後には発見したのだから立派すぎる死に目だろう。 あれだけ喧嘩ばかりしていたのに何をそんなにこだわるのだろうと思うが、誰もがもっていて、意外と捨てることが出来ない自身の教科書に縛り続けられるものだと、再認識した。