刺身

 4月に、3年間働いたかの国の女の子が一人帰国する。岡山の街を歩いている時に突然「サシミ オミヤゲ カッテカエッテモイイデスカ?」と僕に尋ねた。ほとんどの日本食を食べることが出来るようになったが、刺身だけはまだ駄目な彼女が珍しいことを言うなと思ったら、お父さんのお土産に持って帰ってあげたいらしい。「オトウサン サシミ ダイスキ」らしい。かの国で刺身を食べる習慣はないと思うのだが、何処かで食べたことがあるのだろう。ただ、ざっと計算しても、刺身を買ってからお父さんの口に入るまで20時間近くかかる。素人の僕でもちょっと不安だ。「日本人 刺身 買ったら すぐ食べる」と教えてあげてもすぐには受け入れられなくて、何度も首を傾げていた。僕の言ったことに根拠がないから、それ故説得力もないから、高島屋の鮮魚売り場の方に聞いてみた。すると簡単に「それはあり得ないでしょう」と一刀両断に切って捨てられた。それで彼女もやっと納得してくれた。  落胆している彼女に「○○○○では刺身は売っていないの?」と尋ねると「ウッテル」と答えるが「カウ」とは答えない。不思議そうに次の言葉を待っていたら「タカイ」と又顔をしかめた。「日本料理店で食べればいいじゃないの」と僕は追い打ちをかけるようについ軽率なことを言ってしまった。もっと高いに決まっている。  こちらに暮らしていれば、刺身など簡単に買えてしまう。今夜も僕は298円と値段がついている刺身を食べた。ところが向こうではこれの10数倍はすると思う。いや普及していない分、もっと高価なものだろう。一皿がひょっとしたら月給の3分の一くらいの値段かもしれない。いい加減なことは言えないが、かの国で刺身を買うという選択はまずないと見た。日本人に比べればきつい仕事をしていても、それが何ら苦にならないくらいの収入を得る手段を4月から失う不安をきっと心の中に隠している。一度母国に帰ればなかなか日本に再び来るのは困難らしいから、国の人に比べればかなり豊かな生活を送った3年間の終焉を受け入れるのに苦しんでいる。時折見せる寂しそうな表情が物語っている。「オトウサン オカアサン オカネナイデスカラ」後部座席で一人つぶやいたあの日の光景を思い出す。  仕送りを続けた心優しい青年の力になってあげられないのが口惜しい。