低俗

 あまり集中して聞いていなかったからハッキリとは聞き取れなかったが、「人生を変える祈り」と言う有り難い話を誰かがするとミサの後紹介していた。どの様な内容の話か分からないが、大袈裟なタイトルだけが耳に残った。   今になって思えばどうして一歩足を踏み入れてしまったのかよく分からない。適当な距離感で自由に都合よく関わっていた頃にはなかったストレスが今はある。寧ろストレスの方ばかりが目について、何を期待して時に足を運ぶのか自分でも分からない。いや何も期待していないことだけは今ははっきりしている。これは信仰上の成長かもしれない。本来期待するところではないってことがやっと分かったのだから。そしてそれは恐らく教えとしても正しいのだろう。  日曜日、折角の休日が、有り難すぎる厳しすぎる話で埋まる。解放感どころか、まるで聖人のようなことを強いられ、その求められるものとあまりの落差に自信を失う。小さな教会だから、多くは信仰を競い合い、脱落するものには手を伸ばさない。いつの間にか心地よい人ばかりの集まりになり、普遍の教理はあえなく「気の合う者達だけのもの」の単純な動機の前に頓挫する。  日々の不安を払拭するためにひざまづくが、いと高き方はなかなか姿を表してくれない。その代わり慇懃を纏った生き神様達が闊歩する。 「さあ、人生を変えるパチンコに行ってこよう!」低俗を許す人なし。