隠れ家

 牛窓に帰って35年になるのに、又片手で充分足りるくらいしか牛窓を完全に離れたことがないのに、そんな僕が知らないようなお店が立て続けに開店していた。もっとも僕は日曜日に主要県道を通って岡山に出るくらいしか町内を移動しないから、県道沿いの変化しか目にとまらないのだ。最近はどうもそんな旧来の常識的なところには開業しないみたいで、意識的に不便な土地に開業する傾向がある。余程集客に自信があるのだろう、敢えて不便を強調しているようにも思える。わざわざ感がいいのだろう。  一軒はフランス料理の店で、予約で1日一組しか取らないらしい。テレビで放映された影響でもう2か月くらい先まで予約で埋まっているらしい。娘がインターネットで調べたら一人4000円くらいするらしい。その値段に驚いていたら娘は普通だと言っていた。僕の普通はやまラーメンの600円までだから、めちゃくちゃ贅沢に思えた。  一軒はカフェで、すでに利用したある女性によれば、コーヒーを木の上で飲めるような席もあるらしい。何でもその女性は、出されたメニューが全部アルファベットだったから、日本語で書いてとお願いしたらしい。まさかの要望にあちらも驚いたかもしれないが、それに応えてこそ繁栄ありと田舎では知るべしだ。僕が牛窓に帰った頃ほとんど同時にペンションブームがあって、10軒以上のペンションが牛窓に建った。オーナーのほとんどは都会の人だったから、中には地元の人間をあたかも知識の少ない田舎者と見下している人もいた。しかし、時代の流れと共にその人達は夢破れ去っていき、謙虚さを持ち合わせていたオーナー達だけが残った。日々接する田舎の人間もお客さんになる可能性は十分あるのにと、至極当然の疑問を僕は当時もっていた。  一軒は居酒屋さんで、牛窓では珍しく24時まで営業している。健全さで言うと右に出る町がないくらい健全な町だから、夜の8時を過ぎればもうほとんど深夜なのだが、これであの山の中腹のお店辺りだけは、時間が都会になる。都会と言っても不夜城にはほど遠いから、地方の県庁所在地なみだろうか。  いずれにしても不便と引き替えに自然豊かな場所で、古民家ふうという共通点がある。古民家なら牛窓には余るほどある。いや、古民家だらけだ。いくらでも隠れ家的な食べ物屋さんなら出来る。もっとも田舎の人は隠れなければならないほど誰も悪いことをしないし有名でもないから、正々堂々とした表通りでも良いのだが。  若い頃はインスタントラーメンが主食、牛窓に帰ってからは500円以上するラーメンが外食の楽しみだったが、これからは時代に付いていくようにちょっと贅沢を許してもらおう。その為には、まずナイフとフォークが使えて、膝の上に白い布をひいても照れないようになること、次にアルファベットのメニューが読めるようにカタカナに強くなることと、最後に8時過ぎても食事がとれるような胃袋に鍛えることから始めよう。考えただけでも顔が都会的になったみたい。