アート

 「おじちゃんのはほとんど芸術の域に達しているね」「アートの世界だわ」と言うから、僕の顔の配置がほとんど前衛芸術ばりにアンバランスなのかと思ったら、どうやらそうではないらしい。 あることを手伝ってもらった甥が、薬局の裏の事務所で僕の応対ぶりを数時間聞くともなく聞いていた後の感想だ。相談机に腰掛けてもらい何人かを応対したのだが、その中の多くはいわゆる心のトラブルだ。そこまで行かなくてもストレスによる体調不良も多かった。甥は外国の大学で心理学を勉強していて、今度アメリカの大学院にも又勉強に行く準備をしているのだが、その彼に褒めて?もらったことになる。  僕は田舎の薬局の特徴かもしれないが、必ず症状を確認するからほとんどの人と会話をする。原則として無駄な会話はしないが、無駄な会話を挟まなければならない人もいるし、無駄な会話ばかりをしなければならない人もいる。30年薬局の店頭に立ち続けているから、延べにしたら恐らく20万人以上と会話したことになる。いや30万人に近いだろうか。それだけの人と話をすれば、色々なことを学ぶことが出来る。心理学を勉強しなくても人の心理は分かるし、どう接してあげればよいかも分かる。教科書には決して載っていない我流のやり方だと思うが、それで多くの人の役に立っているのだからそれでいい。正式に何かを学んで接しようとは思わない。寧ろ教科書のような対応をされて解決しなかった人ばかりが訪ねてくるから、僕のようなむちゃくちゃな応対でいいのだろう。僕の所に来てくれている人は直接耳で聞いているし、こうして文章にも時々書くから皆さんも知っているだろうが、僕が心を病んでいる人にかける言葉は2つしかない。「絞め殺せ」と「パチンコにでも行ったら」だ。心の中では本心に従えばいいと思う。あたかも道徳や宗教の教義のように模範的な回答を心の中でつぶやく必要はないと思う。追いつめられてまでそんな優等生でおれるなら、元々追いつめられたりはしない。強くて幸せな人にしか通用しない正解など押しつけられたらたまったものではない。心の中には何本もの逃げ道を作っておくべきだ。汚くても卑怯でも心の中なら誰も傷つけない。それでいいではないか。タールがへばりついたパチンコ屋の空気に孤独を癒されたあの頃、何の目的もなく、その日の地獄のように長い時間をせめて耐えられるくらいの時間に縮めてくれた殺人的音量。まるで汚泥のような青春から息も絶え絶えに脱出してその後の僕がある。一歩間違えばからなんとか逃れることが出来て今の僕がある。教訓や美しい言葉が出せるはずがない。自分の過去に正直であればあの二つのことしか言えないのだ。  目の前に腰掛ける多くの人が、あの頃の僕と重なってしまう。創造性はなかったが、生き方だけは貧乏芸術家のような、それこそアートのように破滅を含んだ怠惰で際どい日々だった。