田子作

 ある対談をインターネットで聞いていたら、田子作という言葉が何度か出てきた。前後の文脈で何となくニュアンスは分かるのだが、確かな理解はなかった。聞いたことがあるようなないような単語だった。対談では色々なカタカナ語が頻繁に飛び交い、その意味はほとんど分からなかったが、日本語がよく分からないでは情けないので調べてみると、田舎者や百姓を侮辱して使う言葉らしいのだ。討論の中身は農業についてのものではなく、政治や社会情勢などの内容だったから本来の意味で使っていたのではなく、比喩で用いられていたものだってことが分かる。 田子作と同じように何度か登場した言葉に愚民ってのがある。同じような意味で用いられたのだろう。討論では希望よりも失望の方が多く語られていて、勇気を与えられるものではなかったが、この種のものを聞いたことがないので、なかなか面白いものだと思った。この国を、この国の人を憂う人達、それも又専門家と言われるべき人が居て、この種の討論をしたり本を書いたりしているのだが、専門家と言われる人達の総崩れを目撃している昨今、この種の人達だけを信じるわけにはいかない。自立できない個人をさしてあのような言葉を使うのかも知れないが、田子作のイメージを逆手にとって商魂たくましい会社や人達が居ることもインターネットで知った。  考えてみれば、僕の住む町はいわゆる田舎で田子作ばかり。薬局に来る多くの老人達はお百姓。これ又正真正銘の田子作。いわば僕も田子作だらけの町で生まれ、田子作に育てられたようなものだ。生粋の田子作だ。ただそんな田子作でも強いものは生理的に嫌いで刃向かいたくなるし、人と横並びで安住はしないし、胡散臭いものを見抜く力は常に磨いているから、軽んじられ蔑視の対象になり、飼い慣らされるべき存在ではない。僕の薬局に来る長閑な雰囲気を醸し出す老人達もそうではない。都会の研究室から見える光景が実相から如何にずれているかは、政治家と同じ次元だ。どんな響きを感じながら対談者が好んで使ったのか分からないが、僕には田子作こそが救うことが出来る時代が来たようにしか見えないのだが。