気兼ね

 昨夜寝る前から、明日はどうして過ごそうかと考えていた。一言で言うと何もすることがないのだ。世間並みに祭日は休みにしているが、困ったもので何の予定もない。したいこともしなければならないこともないのだ。行きたいところも行かなければならないところもないのだ。もっと言うと食べたいものも食べなければならないものもないし、会いたい人も会わなければならない人もいないのだ。 ほんの少しだけ遅く起きて、ほんの少しだけ長く散歩をしたが、鏡のように穏やかな海面に遊ぶカモメを10匹数えたのと、マンションの前の売れ残っていたモダンな建て売りの家についに住人が入ったのを確認しただけで、もうほとんど今日は終わっていた。  こうなると僕の心を落ち着けてくれるのは仕事以外にはない。いつもより30分遅くシャッターを開けたら俄然体調が、いや心調が良くなってくる。まだ昼にならない時間帯にこの文章を書いているが、もう10人くらいが訪ねてきてくれた。もし閉めていたらあの人達はどうしていたのだろうかと、今日より実際に休んだ過去の日々の方が心配になる。今日がつゆ休みだと思わずにやってきた人がほとんどで、偶然開いていて良かったと喜んでくれた人の方が圧倒的に少ない。その中で二人の老人が、それこそゆっくりとした足取りでやって来てくれたから、無駄足を運ばせなくて良かったと思った。どちらも90歳を越えているらしいから、恐らく10分以上かかって歩いてこられたに違いない。又そのうちの一人が漏らした心情には教えられることがあった。  93歳と言っていたが、娘の家に週のうちに何回か泊まりに行く(本当は泊まりに行かされるらしいが)らしいのだが、それが苦痛で仕方ないのだそうだ。何度も「やっぱり自分の家がいいです」をくり返した。どうしてと尋ねたら「気兼ね」なのだそうだ。まだ娘一人ならいいけれど、家族がいるから気兼ねですぐ帰りたくなるのだそうだ。これは僕の家でもこの数年のテーマなのだ。自立した人のしっかりした晩年を多く見かけているから、迷いはなかったが、それも限度があるって言うテーマを今は突きつけられている。偶然開けた休日に、正直な感想を教えてもらってとても参考になった。  また、旅行客か、市外の人か分からないが、偶然漢方薬のポスターを見つけて入ってきた女性がいる。紫雲膏を求めてやってきたのだが、自家製だと言うことを知ってとても喜んでくれた。まさかこんな田舎でという意外性がお土産になれば嬉しい。もう一つ僕の都会的な風貌と言葉遣いと品がお土産になればこの町に観光客が増えるかも。  さて、シャッターを下ろしてコンビニに昼ご飯を買いに行こう。あの嫌いな「温めますか?」「395円になります」に負けないように心準備をしてから。