基準

 もう随分前に市民病院にかかっているはずなのに、一向に首や肩の回りのリンパの腫れがとれない。どの様な診断だったのか言葉の壁で余りこちらには正確に伝わってこないが、恐らく抗生物質を出されているのだろう。少しは腫れが小さくなったのかと尋ねると同じ大きさだという。それでは困るので、又受診した方がいいのではないかと何回か助言したが、気が進まないらしい。 その後も来るたびに首のあたりに自然と手をやるのでこちらも気になる。そこで、以前かかっていた病院に何か行きにくい理由があるのだろうかと考えて、「もし良ければ息子が勤めている病院に連れて行ってあげようか、大きい病院だから詳しく診てもらえるかもしれないよ」と言うと、それでも首を縦に振らない。悪い病気ではないのだろうと市民病院の対応で想像はつくが、治らずに放置しているのも本人にはストレスだろう。  「どうしてそんなに病院に行きたがらないの?」と尋ねるとついにその理由を教えてくれた。かの国では病院に行くときは「吐いたときと、倒れたとき」だけなのだそうだ。簡単明瞭な答えだ。こんなに確かな基準を持っているなら最初から言ってくれれば僕も気を回したりしないのだが、言葉の壁やスタッフの態度などと他の要因ばかりを考えていた。そう言えば、彼女たちが不調を訴えてきたときにいわゆる患部に火傷みたいなものが出来ていて、それは薬草を焼いて患部にあてた跡だと言っていた。伝承の治療を試みているのだろう。僕はその、病院にかかる基準を聞いたとき、なんて未開な人達だとは思わなかった。寧ろその逆で彼女たちの強さと、この国の人の弱さを感じた。現代のこの国の人達は、ちょっとした異常でも病院にかかり地力で治すってことをする勇気も知恵もない。文明の発達が、医学の発達が人をここまで気弱にさせるのかとも思う。かの国の寿命はこの国の寿命より20年くらい短いから、若い時から死は遠くないものになっているのかもしれない。ひょっとしたら今僕の目の前にいる若い人達でさえ、僕より先に逝く可能性さえあるのだ。この若さで後何年かと心の中で指を折って、その理不尽さに同情するが、弱々しく何も生産せずにひたすら長生きだけを目指すこの国より余程理にかなっているとも思えた。  僕が教えてあげられるのは、工場で生産されたものばかり。その代わりかの国の若い女性達が教えてくれるのは生きるってこと。たくましく、質素に、懸命に生きるってこと。 空しい豊かさの中に、人の心の豊かさが突き刺さる。