臨場感

 有名な薬なのに、どうしても僕には使えない薬がある。2年くらいその薬の説明会に通ったのに、どうしても効果を信じることが出来なくて、結局は誰にも推奨できずにいた。ただ有名だから、僕の努力とは関係ない指名買いがあって、商品は陳列していた。巷の評判はすこぶる良いと全然効かないの両極端に分かれていたから、どんな薬でも確率7割を狙っている僕としたら、推奨は出来なかった。 どんな商品でも全国には大量に販売できるカリスマがいて、特に難病といわれるものに売っている。それを売りこなす能力はあたかも薬局のステイタスかと言わんばかりの熱の入れようだ。各々の病気には各々の薬が適応するように僕には思えるが、まずその薬を治療の中心に置く。そこまで商品に惚れ込めれば幸せかもしれないが、薬剤師としては二の足を踏む。  僕の漢方の先輩はその薬を信頼して積極的に販売していた。若くして亡くなったが、その奥さんが先日その薬の使い方を教えてくれた。ある病気で奥さんご本人が服用しているから、臨場感に溢れ、寧ろ生々しい治験のように感じた。奥さんが現在はとてもお元気だから説得力がある。そして何よりも僕が教えて頂いた内容で嬉しかったのは、ずいぶんと謙虚な販売をしていたってことだ。高額なものだからそれこそ何の病気でも勧めることは出来ないし、経済的な余裕がある人にしか勧めることは出来ない。そうした制約の中で必要な人を見極め、効果が出そうな人を見極め販売していたのだと思う。とても的を絞った使用方法だと思った。それなら信用できる。極めて限られた使い方だが、今はこれしかないって言う緊張感のある使い方を僕はしたい。勿論全ての薬で。   実は多くの薬が何十年の間に新発売されているが、必要にかられて作られたようなものはそんなにない。日常普通の人が陥る不調なら何十年前に製造の許可を取った薬局製剤というもので対応できるし、手強いものなら漢方薬でかなりの部分が対応できる。それで駄目なら病院だ。企業は不安を煽り、欲望を煽り消費させることに躍起だが、いらない薬なんていっぱいある。「なんにもしないことが、なんかすることと、同じだったりする」友部正人はひょっとしたら数十年前薬について歌っていたのだろうか。その唄を当時大学で聴いていた勉強大嫌い人間が、薬について勉強しない日がないくらいの生活を送ってきた。勉強すればするほど田舎の人の役に立てたから、勉強のモチベーションなんて自然に保たれた。願わくばあのモチベーションを大学にいるときに経験したかったが、チューリップに吸い込まれるパチンコの玉の魅力にはかなわなかった。