肩書き

 「これからヤマトサンのことをお父さん、奥さんのことをお母さんと呼んでもいいですか?」と尋ねられてだめだとは言いにくい。若干の思案のあげく「照れくさいけれどかまわないよ」と返事をした。これが「パパとかシャチョウさん」なら勿論断るが正統派の呼び方だから断る理由がない。乗り越えるべきは僕の照れだけだ。  向こうの人は親しくなるとそんな呼び方をするのかもしれない。あるいは国に残してきた両親を僕らとのつき合いの中に投影しているのかもしれない。たどたどしい日本語で伝えられる国の発展の差を何か後ろめたさを持って聞くことがしばしばだ。頻繁に出てくる貧乏という言葉は、決して日本との差ではなく、かの国に住んでいるときの様子なのだ。昨日も不思議な言葉を聞いた。「ワタシは貧乏で8番目の子供だから水で育った」と確か言ったような気がしたから「水で赤ちゃんは育たないだろう」と言うと「米の水」と言い直した。それなら分かる。詳しくは知らないが日本でも昔母乳が出ないと米のとぎ汁で子供を育てたなんて話しもあったような気がする。この話は、彼女の体調不良について問診をしているときに出た言葉だ。僕は何か昔からハンディーがあるのではないかと思って質問したのだが答えがそうだった。漢方の世界で言う「お血」の典型である彼女にはその体質を作った何かがあると思っていた。話のついでに出てきたお姉さんの状況はもっと深刻だった。病院に行っているのかと尋ねるとお金がないから行っていないと言うし、僕が漢方薬を作ってあげようにも症状が具体的に分からない。彼女は日本語がかなり理解できるし喋れるが医学用語までは無理だ。  僕が何でも頼みを聞いてあげるからお父さんと呼びたいのか、僕がベトナム人のような顔をしているからそう呼びたいのか分からないが、そう呼ばれるに耐えれるだけのことをしてあげたいと思う。幸い言葉がお互い不自由だから、意志の疎通は真実とか真心を通してしかできない。およそとか、まあまあとかはないのだ、強靱な肉体を持たずに異国に出てきて懸命に家族のために働いている若者に薬剤師だからこその援助が出来る。この肩書きをそんなに好きではないが、今は俳優か歌手でなくて良かったとつくづく思う。もし本気で目指していたら、俳優なら福山雅治、歌手なら福山雅治、ビールもタイヤも福山雅治、そのレベルだったと思うが。