温度差

 我ら庶民と政治家の温度差に驚いた。大局的なものの見方が大切なのは分かるが、庶民の感覚も理解してほしいと思った。それと情報の質の圧倒的な差にも驚きを隠せなかった。 ある若手の国会議員がやって来たから、コーヒーでもてなしながら日頃感じていることを自制心を保ちながら喋った。せっかく国会議員と話が出来るのだから一番の関心事について単刀直入に尋ねた。ところがと言うべきか、案の定と言うべきか、福島の原発事故のことで僕と彼の認識は全く異なる。僕の知識の多くは原発に警鐘を鳴らし続けてきた小出先生や広瀬隆のものをもっぱらとするが、彼にはその手の情報源はどうやらないらしい。積極的な推進派とも思えないが少なくとも容認派の理論を踏襲していた。被爆線量の設定や電力不足の都合の良い東電の宣伝などは何ら疑いなく信じているように思えた。 話していて、この種の人達には被害者の視点ってないのだと思った。凡そ国というものが被害者になるなんてことはまずない。政治家や役人はあちらの世界に住んでいるのだ。ほとんどの場合加害者でしかないのだ。それも時に陰湿な加害者でしかないのだ。ところがほとんどの庶民がたたされる立場は被害者のそれだ。だから僕らはいつも被害者の視点で物事を考え判断するように訓練できている。だから結局は彼らとは相交わらないのだ。放射能だってまき散らす側とまき散らされる側しかないのだ。僕らには後者以外の選択肢はない。  強いものの側に立つのは簡単なことだ。企業家も役人も政治家もマスコミも学者もそう願い実現している。ただ残念ながら圧倒的多数はその逆の立場に属するから、少しのアメと引き替えに強い鞭を受けている。美辞麗句の洪水に膝まで浸かって流される庶民の姿が見える。