西瓜

 「店頭に熊本の西瓜があったよ、地震の前に収穫したものかなあ」と妻が買い物から帰って言った。やたら熊本のものが目に付くらしくて、まるでスポーツニュースの取ってつけた熊本出身とか熊本にゆかりのある云々と同列のように響く。ただ、妻の場合は、偽善ぶる必要はないから本心で「あの震災後に収穫して出荷したのなら快挙だ」と言いたいのだと思う。福島産の場合は如何に避けるかだったが、熊本の場合は、如何に協力するかでスタンスが全く異なる。もちろん福島の農家の人に責任があるわけではない。責任は原発を推進してきた政党や政治家や電力会社や、田舎の議員達にある。農家の人もまた消費者と同じ被害者なのだ。何年経っても罪に問われない奴等を見て歯がゆいだろう。片や病気に怯え、片や天寿を全うするなど許されない。  さて、僕の口に熊本の西瓜が入ったかと言うと残念ながら入らなかった。高かったのか買っては来なかった。地震以降、いやでもスーパーで熊本と言う名前を目にすることが多いらしくて、如何に熊本の農産物が西日本を席巻しているかよく分かったが、必需品以外は買わない家庭だから、牛窓が出荷時期になり農家の患者さんがたくさんくれるまでお預けだ。  同じ日本の中にいて、例えば東北の地震と、熊本の地震とでは受け止める感覚がかなり違う。今度のことで僕らは西日本の人間なんだと強く感じた。東日本は感覚的にはかなり遠く、報道の中でしか感じることが出来なかった。それに比べて熊本はさすがに西日本で、入ってくる情報に感覚がついていく。今だ訪ねたことはないが、多くを目にし多くを耳にしていたのだなあと思う。  もう随分前に、2度我が家を訪ね、何泊かしていった女性が今車避難をしている。とても繊細で素晴らしい女性だったが、熊本が僕の心の中でも近いのは、彼女のおかげでもあるのだろう。もちろん福島のように加害者がいないことも大きな理由だが。