祝詞

 今年地区の役員が回ってきたおかげで、昨日部落にある神社の夏祈祷という儀式に出席した。初めての経験だ。何をするのか分からなかったが指定された時間に石段を登って10数人の役員と共に本殿に借りてきた猫のように鎮座ましました。本殿と言っても社自体が小さいので、10数人も入れば十分スペースは埋まってしまう。いつの時代に出来たものか、又何を奉っているのか全く知識はない。それもその筈、昨日初めて石段を全て登ったのだから。  どんなことが行われるのか興味を持って臨んだが、印象深かったのは神主さんの祝詞の内容だ。同類項にくくってはいけないのかもしれないが、僕が知っているのは葬式の時のお経とミサの時の典礼くらいなものだから、結構違和感があった。そのどちらにも属さない韻のふみようや抑揚についていけないから、一緒に唱えるのが難しくてすぐに脱落した。しかし、祝詞で延々と出てくる願い事の数の多さや具体性に圧倒され、昔の人が畏れを少しでも取り去ってもらうために一所懸命祈っていたことが伺われた。日常のほとんど全てのこと、地域のほとんどの営みなどが次から次に登場して祈りの対象となっていた。(具体的に覚えておこうとしたが途中で諦めた)地元に暮らす神主さんだからこそ出来る祝詞のような気がした。  宗教で何が優って何が劣っているなんかないと思っている。僕より年配の方が多かったが、彼らの後ろ姿を見て、これもありだなと、快く受け入れることが出来た。僕もちゃっかり家族の幸せを一杯祈った。普段買い物に良く来る神主さんとそのお嬢さんだから、神秘性はないが、下手なカリスマよりも牛窓のことを懸命に考えているその一途さに親近感を持った。お嬢さんが舞を披露してくれたが思わず踊った後にみんなから拍手が湧いた。まだ神事の途中なのにいいのかと思ったが、いつか何処かで思わず拍手をして戒められた事を思い出して苦笑いした。  お願い宗教をあるところで否定され宗教ってこんなに難しいものかと思ったことがあるが、僕は残念ながら高尚の中では生きていけない。高尚と高尚ぶるの混在から低俗の中に帰ってきて居心地の良い脱力感の中で暮らしているが、高所恐怖症の僕に高尚恐怖症が重なったりしたら目も当てられない。