慰め

 印象に残っている事柄は何年もの間、頭の片隅にしまわれているものなのだ。僕が引き出したのか、本人が引き出したのか分からないが、突然に60年以上も前のことを想い出したらしい。常套句の「忘れもしないけれど・・」で始まったが、それは言わなくても分かっている。忘れていないから想い出して喋ろうとしているのだから。 牛窓は古い時代栄えた港町だから、昔のお金持ちと来たら桁がはずれていて、今で言うソフトバンクのソンさんみたいなのが居て、逸話だが、牛窓から岡山まで自分の土地の上を歩いて行けたなんてのが残されている。その家の息子と2歳違いで幼いときにはよく遊んでいたというのが今日の話の主役だ。何代か経れば名門もただの家になりそうなものだが、名門たる所以だろうか、未だ雲の上のような経済活動をしている。その名門のお家の方が最近アーティストを呼んできては、酒蔵を改装した音楽ホールでコンサートを開催している。主役の近所にあるから「コンサートを聴きに行っているの?」と尋ねると「行くもんか、この歳になってピアノじゃギターじゃ言って分かるもんか」と答えた。顔は日に焼けてくしゃくしゃだから見ただけで縁遠いのは分かるが、話の流れでそんな質問をしてみた。「そこの○○だけれどな・・・」で、「忘れもしないが・・・」が始まったのだ。彼が忘れられないのは、彼が小学校の2年生の時の出来事らしい。  当時どの家も貧しかったからお小遣いなんかあるわけがない。ところが名門のうちにだけはそれがあって、おやつも自分で買っていたらしいのだ。ある日2人で遊んでいたときに、名門がお店でおやつを沢山買った。その光景を見て彼は黙って手を出した。頂戴って事なのだが、それをやりながらとても恥ずかしくなったらしいのだ。その時の自分の態度を思い出すたびに恥じ入るらしい。60年たってもハッキリと覚えているそうだ。卑しさで出た態度かひもじさで出た態度か分からないが、彼にとっては屈辱の一瞬だったのだろう。  老人になってまで恥じ入るような仕草をしたから僕は慰めた。「普通なら、そこで一念発起して勉強に勤しみ、成功をして故郷に錦を飾って名門を見返したと言う美談になるのに、今じゃあ、よけい差がついているではないの」と。