奇遇

○○さんへ  今朝妻から、昨日の神父様の説教の内容について僕の話を聞きたがっていたと教えられました。奇遇ですね、ひょっとしたら同じ事に気づいていたのかもしれません。敢えて話題にすることはしませんでしたが、もしみんなでお茶を飲むときに話題に上ればお話ししようと思っていました。勿論その引っかかりは昨日の記念すべき行事のあわただしい準備や後かたづけの中ではありませんでしたが。  さて、僕が引っかかったのは、バスが故障した時に乗客がとる行動が3つのパターンに分かれると言うくだりでした。バスから降りて一所懸命押す人、かけ声だけよいしょよいしょと繰り返す人、軽くバスにタッチするだけで押している素振りだけの人。こうでしたね。直感的に二つのパターンが欠落していると僕は思ったのです。それはバスから降りない人と、リーダーシップだけ働かせて陣頭指揮を執る人です。ただバスから降りない人には二通りのパターンがあります。確信犯的に降りない人と、気持ちはあっても降りれない人です。例えば腰痛のように骨格系に故障を持っている人や狭心症のように心臓に故障を持っている人は手伝う意志があっても力仕事は出来ません。これらを訴えてくれなければ確信犯的な人と区別は尽きません。誤解してしまうでしょう。ただ確信犯的に傍観者を気取る人を僕らが責めることも出来ません。僕らが仮によいしょよいしょと押す人種であっても、それが確信犯的な人に優るものとは思えませんから。偶然その場所において善人であり得ても、それは何ら普遍性を証明する理由にはなりません。多くの不完全を内包している僕達ですから、他者を批判する立場にはないのです。気力体力が自分に充実していたら彼らを受け入れればいいし、自分に自信がなければ彼らを避ければいいのです。僕らは誰かの見本になるような生き方をしているのではありません。そんな器であることを期待されたらあっという間に心が崩壊してしまいます。自分の力量は病気という形ですぐに教えてもらえますから。恐らく自身の心に鬱屈したものを多く抱えてバスから降りない人を受け入れる寛容さを保証する心身の充実をはかりたいものです。  すぐにリーダーシップを発揮する人も忘れてはいけませんね。才能に恵まれているのか持って生まれたものか分かりませんが、どの様な状況でもその立ち位置に納まる人がいますね。寧ろ僕はこの人種のほうが苦手です。必ず欠点やあやうさを内包しているだろう-完全ではあり得ないと言った方がわかりやすいかもしれませんが-人間に多くを任せたり依存する勇気は持っていません。特に謙遜のかけらもない人は本能的に信頼しません。  ただ長い間薬剤師と言う職業で沢山の人を見続けていると、誰もが懸命に何かを守りたくてそれぞれの行動をとっていることが良く分かります。みんな懸命なのです。家族や友人、隣人、地域、職場、国、そして自分自身、守りたいものはまちまちなのです。誰にも触らせたくないもの、触れないものを持っているのです。  今日は急に晴れたり急に降ったりの変化に富んだ1日でした。自然でさえためらいがちなのですから僕ら凡人の心が漂流するのは致し方ありませんね。このか弱さこそが愛おしいとこの頃は思えるのですが。 大和