北房

 「北房へコスモスを見に行ったけれだまだ全然咲いていなかった」と初老の男性が言ったから、「どうしたの、わざわざ茎を見に行ったの?」と答えた。もっとも僕は北房がどの辺りか実は詳しく知らなくて、岡山県の北の方くらいの認識しかないし、コスモスと言われてもどんな花か見当もつかない。コスモスと言われると、花よりもドラッグストアか山口百恵の方がぴんと来る。 「100万本のコスモスが咲いていると思って行ったのに」と残念そうに言うから「100万本の茎が見えたのだからいいじゃない」と意地でも茎に拘った。県内の道の駅や植物公園を訪れるのが趣味なのか、薬を取りに来るたびにどこどこへ行ったと教えてくれる。首と腰をスポーツで痛めて、手がしびれ握りにくく、歩くのは老婆にもおいて行かれるほど心許ない。しかし何故か薬を飲むのはすこぶる熱心で、茶碗を落とさなくなった、老婆にならついて歩けるようになったなどの効果はあったが、これから先も長い。それなのにリハビリは苦手らしく奥さんがいつも嘆いている。ただ車は運転できるから、県内の色々なところを訪ねているのだ。  家が200坪の土地に建っていて、隣に荒れた自分の土地が300坪あるそうだ。500坪もあれば、毎日ウォーキングを自分の土地で出来る。「ご主人、人に会いたくなかったら、自分の土地をぐるぐる回ればいいではないの。僕の患者さんで、人に会いたくないから納屋の中を30分歩き続けている人がいるよ。車を入れているから狭いところを通り抜けるようにして歩いているらしいよ。何も景色が変わらないのにすごい忍耐でしょう」と教えてあげると、奥さんと一緒に吹き出していた。治りたい一心の懸命の努力は痛々しいが、病気というものはなかなか人と共有できにくいものだ。余程共通の病気を体験しないと分かり合えるものではない。僕らは多くの病人と接するから、毎日毎日病気の疑似体験は出来るが、痛みや苦しさは共有できない。  年金暮らしの悠々自適も健康の裏付けがないと、苦行になる。500坪の土地があっても一歩も歩かない人と、車庫をちょっと大きくした程度の納屋を、ハツカネズミのように歩き回っている人と現役時代をそのまま引きずっているが、せめて病気だけは平等であって欲しい。