機関銃

以前にも書いたが、漢方薬や病院の薬を患者さんに渡していて思うのだが、揚げ足を取る人と心の中に敵がいる人は病気が治りにくい。もうすでに薬を出す時点で感じてしまう、この人には薬は効かないだろうなと。そしてそれがかなりの確率であたってしまうから、今では自信を持って言えるし、この話をするとかなりの人が納得する。恐らく身近に思い当たる人が何人かいるのだろう。  前者は持って生まれた性格か、親の丸写しか、余程不遇なことがあってその様な性格になってしまったかのどれかだろう。天才的なひらめきで相手を否定する。その才能が何か他のもので生かされたら、とてつもない成果も生む可能性があるのだろうが、人がもっとも嫌う否定を繰り返すものだから、周りから人が消えていなくなる。消えれば消えるほど余計吠えて悪循環に陥ってしまう。回りからの数少ない助言も所詮揚げ足とりの餌食でしかないので、ますます孤立してしまう。  後者はもまた、皆さん納得して聞いてくれる。これは自分自身に問えることだから簡単だ。1人や2人その様な存在をすでに誰もが持ってしまっているのだろう。あの人さえいなければと何度思ったことだろう。あの人がいない世界はなんて穏やかで幸せに充ちた世界だろうと夢想することしきりだ。人のマイナスの情念がこのような狭い心を作ってしまうがそれから抜け出すのは至難の業だ。  ところが僕が偶然手にした解決方法は、その人が僕の為に生きているのではないと言う極めてシンプルな考え方だ。家族、職場、地域と、多くの僕の関与しないところで信頼を得て愛されているかもしれないと言う簡単な想像。それでそれまでの根拠のない憎悪から解放される。自分にとっての不都合はその人を判断するには情報として少なすぎるのだ。多くの見えない部分を勘ぐって勝手に否定しないことだ。もっと言えば人を否定できるほど自分は肯定的な人間ではないという謙虚さも必要だ。 長い人生の間で、本当に多くの人に助けられた。それに対してどのくらいの人を助けることが出来ただろう。出来れば受けた恩と、お役に立てた経験を帳消しくらいにしておきたいが、なかなか受けたものが多すぎて非力な僕ではお返しすることは難しい。田舎の比較的温厚な人の中で暮らすと、人間っていいものだなあと思えることがある。犬や猫に比べるのはおかしいが、愛くるしく思えることもしばしばだ。生きる手段として人を否定しなくても良いお互い様が、まだ残っているからかもしれない。  揚げ足と否定を機関銃のように繰り返し、回りの命をむしばむようにして結局は余りにも早い自滅を選択する事のないように、町の薬局の気付きが生かされれば幸いだ。