凶器

拝啓 ○○様  僕は田舎で薬局を開設している薬剤師です。30年以上この職業に携わって思うことがあるのです。その思うことが今の時勢と重なってしまうのです。無学な一薬剤師が薬局内で感じ続けてきたことが、そのまま社会で通用するかどうかは分かりませんが、最近のあなたのテレビでのコメントのしように同じ欲求不満を抱えているような親近感を覚えてメールします。 僕は漢方薬で慢性病のお世話をする機会が多いのですが、僕の実力を棚に置かせてもらって言うならば、人の揚げ足をとる方は病気がとても治りにくいことに気がつきました。恐らくそれがまさに癖にまでなっている人は、まず他者を評価しません。人には必ず長所と短所が同居していますが、長所に目をやって褒めるようなことは決してその種の人はしません。だから周りの人は不快感を覚えて次第に去っていきます。口汚い言葉は物理的な凶器にはなり得ませんが、心を傷つける凶器です。凶器を振り回している人には誰も近づかないので、自ずと孤立を深め、ますます攻撃的になるのです。そう言った人に手を差し伸べることが出来る人格者は滅多にいるものではありません。気力と体力の両方に恵まれた人でない限り、その種の人に優しくはなれないのです。 僕は最近テレビを見ていてこれと同じ不快感を感じてしまうのです。だからリモコンを手元に置いて揚げ足取りのコメントが始まればすぐにチャンネルを変えるか、いや、変えたチャンネルが同じように揚げ足取りに終始していることが多いのでいっそのことスイッチを切ってしまうことが多いのです。あたかも局によって意思統一が出来ているかのような司会者への安易な賛同、司会者の思わせぶりな声色や、意図的な間の取り方、それらも含めてテレビは今や不快製造器になっていないでしょうか。今日こそはと気持ちを入れ替えて望んだ朝の透明な空気を不快な言葉で沈殿させることは、一種の罪です。法律では罰せられませんが、人の心を不愉快にすることは、それも全国の人達を不愉快にさせることは大きな罪です。 今や国民は知識も豊富ですから、下手な解説は必要ありません。まして机上で作り上げたコメントなど何の臨場感もなく空しく響くだけで、コメンテーターと言われる人が逆に哀れに見えてきます。安易な同調や揚げ足取りしかコメンテーターの職を確保する道がないのなら致し方ありませんが、まず相手の長所や実績を褒めてそれから批評、批判をするのが庶民の知恵です。よくもまあ、あんなに独善的なのだと恐らくかなりの人が不愉快に思っているでしょう。謙遜とか謙虚などと言う言葉はマスコミには存在しないのでしょうか。マスコミ自体がすでに権力になってしまっているのでしょうか。  僕はあなたが、男性陣の自信過剰気味な発言に、又揚げ足取りに終始する発言に当惑している姿を何度か見ました。そして反論される姿も見ました。安易な司会者の誘導に乗らなかったのも見ました。以前○○○子さんが同じような態度をとったのも見ました。口先だけで生きていく輩との違いを僕は見たのです。毎朝繰り広げられる揚げ足取りの醜態を誰が喜んで見ているでしょう。不快を避けてチャンネル操作せざるを得ない人達を、以前僕はチャンネル難民と呼びました。 食卓に並ぶもののほとんどは、腰の曲がったおじいさんやおばあさんが、人が眠っている時間から海に出かけ、畑に出かけ、もくもくと獲り育てたものです。綺麗な空気もおいしい水も自然に逆らわなかった人達のおかげで守られています。命を育むのは感謝です。自然界も人間の世界も同じだとは思われませんか。